義栄将軍宣下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 06:29 UTC 版)
二人の将軍候補の陣営が拮抗して将軍空位が長期化する事態に朝廷は苦慮していた。義栄を擁する篠原長房・三好三人衆は松永久秀らとの抗争が続き、いっぽうで義秋を庇護する朝倉義景も一向一揆対策に追われて上洛どころではなかった。朝廷は双方に対して将軍就任の要件としてとりあえず銭一万疋(百貫)の献金を求めたが、先に応じたのは義栄であった。義栄は一万疋を半分に値切り、永禄11年(1568年)2月に摂津富田において将軍宣下を受けたが、畿内の情勢がなお不安定なため入京は先送りとなり、幕府の再興には至らなかった。在京する幕臣の中に事件に対する反発や義栄への非協力的な動きがあり(特に行政実務を担う奉行衆にこの動きが強く、一部は義昭の生存を知って越前に向かう)、義栄が上洛できる環境にはなかったとする指摘もある。そのため篠原・三人衆側は京都周辺にあった幕臣の所領の安堵と引換に義栄陣営への取り込みを図っていた。
※この「義栄将軍宣下」の解説は、「永禄の変」の解説の一部です。
「義栄将軍宣下」を含む「永禄の変」の記事については、「永禄の変」の概要を参照ください。
- 義栄将軍宣下のページへのリンク