義母の没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 07:07 UTC 版)
1979年1月、義母を膠原病で失った。元より反権威、反権力的姿勢であったが、1981年、東京藝術大学教授海野義雄による受託収賄事件(芸大事件)をきっかけに、徹底的な取材に基づいて藝大を頂点とする音楽業界内部の批判を展開し、それ故か後年自身が没した時にはクラシック音楽の主たるジャーナルではあえて大きく報じられなかった経緯がある。 1980年代以降は体調を崩し、私的勉強会「零の会」(れいのかい)を主催。この会から吉川和男( 宮城教育大学 教授)、片山素秀(片山杜秀)(音楽批評、現代思想史・慶應義塾大学法学部教授)、白石美雪(音楽批評・武蔵野美術大学教授)、高久暁(音楽批評・日本大学芸術学部教授、N.スカルコッタス研究)、長木誠司(音楽批評・東京大学大学院総合文化研究科超域文化学専攻教授)、山下裕二(東洋美術史・明治学院大学教授)、大石泰(東京藝術大学演奏芸術センター教授)といったアカデミズムの分野だけでなく、上記の作曲家をはじめ様々な才能を輩出した。生涯独身。1981年頃から胆嚢を患い、1984年には糖尿病で入院すること2回。1988年には進行性直腸癌と診断され、直腸の全摘手術を受けた。その後も転移性肝臓、肺癌により入退院を繰り返し、呼吸不全のため川崎市宮前区の虎ノ門病院分院で他界した。
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