義民伝説へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 07:38 UTC 版)
1671年(寛文11年)、連頼の死を契機に、加賀藩は長家から鹿島半郡を没収し、他の家臣同様、給与としての俸禄を支給することになった。こうして、加賀藩は領地を完全に直接支配下に組み込んだ。 1672年(寛文12年)、改作法に基づく検地が行われ、長家時代の3万1千石から、倍近い5万5千360余石と評価された。実質的な増税であり、領民の生活は悪化した。こうしたことから、命がけで検地反対の直訴に及んだ道閑は、義民として慕われるようになった。「おいたわしや、とこやちの道閑様は、七十五村の身代りに」という臼摺歌(労働歌)の歌詞が、今に伝わっている。また、十村頭は藩体制の末端として、百姓一揆の矢面に立たされる側に立場を変えた。 1817年(文化14年)の百五十回忌では、道閑を弔う「迎覚院道性禅門位」の墓碑が建立された。 1967年(昭和42年)の三百回忌には、鹿島町(当時)久江地区の記念事業として、「義民道閑顕彰碑」と道閑公園が造られた。また、処刑された刑場跡も、史跡として残されている。墓所は、中能登町能登部下 真言宗長楽寺
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