義民の顕彰
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1725年、水野家6代目である水野忠恒は江戸城内で刀傷事件を起こし、水野家は改易された。翌年戸田家が松本藩に入封したのが義民顕彰のきっかけとなった。小穴善兵衛の故地であった楡の共同墓地精進場に長尾組・上野組の人々による「貞享義民五十年忌経典二千部供養塔」が建てられた。 明治になり自由民権運動が吹き荒れる中、地元穂高出身の松沢求策が民権家としての加助を新聞紙上で取り上げて連載した。翌年(明治12年、1879年)にはそれを「民権鑑加助の面影」として舞台化させ、松本常盤座で初演。各地で上演された。1916年には半井桃水の新聞小説「義民加助」が朝日新聞に連載され、全国的に知られることとなった。 墓は貞享義民社(長野県安曇野市三郷明盛)隣にある。貞享義民社とは、多田家敷地内で加助らを祀った小さな祠が騒動200年祭を期して旧中萱村の郷倉跡に移されて加助神社に改められたものがその始まりである。同地は塩尻峠の戦いで落城した「イヌイの城」の城址に比定されている。 騒動の後「加助のたたり」を怖れた水野家が屋敷内に祀るために作らせた加助坐像が、後年水野家から加助神社に寄贈され、本尊となっている。宗教法人「貞享義民社」となったのは1960年のことである。なお同年多田加助旧宅跡が長野県文化財に指定された。1986年11月3日にはテレビ信州制作でドラマ「義勇天を貫く」が放映された(演・寺田農)。 騒動300年祭後の1992年には地元の人達によって貞享義民記念館が建てられたが、貞享義民社のすぐむかい側である。
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