民権家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/05 09:40 UTC 版)
明治15年(1882年)4月6日、自由党総理・板垣退助が、岐阜で兇漢に刺されると、世論は民権論に湧き立った。 同年5月11日、「嶽洋社」において『読吉田大八之述懐』を演説。 同年5月25日、「嶽洋社」において『之れ果して為政家の得策乎哉』を演説した。同日、「嶽洋社」では堀見章が『人間の本分とは如何なる者乎』を、明神安久が『告聴衆諸君』、小島稔が『尊王論』、坂本南海男が『告兄妹諸君』を演説している。 明治27年(1894年)12月27日、土佐郡小高坂村の士族・横山友時の四女「牧」と婚姻。 渡鮮して朝鮮総督府へ奉職するが、明治41年(1908年)、43歳で退官後、郷里高知市へ帰る。
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