自由民権家として
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明治12年(1879年)、元老院に辞職を申出て雇名義での隔日出仕を命じられたが、8月に官吏の政談演説が禁止されたため雇も辞す。10月、『嚶鳴雑誌』創刊。11月18日、横浜毎日新聞を買取り、社長として『東京横浜毎日新聞』に改題、東京府京橋区西紺屋町に本局を開く。11月、東京府会議員に選出される。 明治13年(1880年)1月23日、臨時府会で副議長に当選。12月、自由党準備会に加わる。明治14年(1881年)3月、自由政党創立委員となり国会期成同盟の責任者の一人となる。8月、東京横浜毎日新聞で開拓使官有物払下げ案可決の一報を報道(前月末から風説を報道)。8月25日、新富座にて「開拓使官有物払下げ反対」の大演説会を開催する。9月から11月まで東海、東北地方を遊説するが途中脳病を発病。 明治15年(1882年)4月、嚶鳴社一派を率いて立憲改進党に参加。7月、政府から政治結社の認定を受け嚶鳴社を解散する。7月、東京府会議長に当選。明治17年(1884年)12月、立憲改進党解党に反対するが大隈重信・河野敏鎌ら幹部が脱党。沼間は党を孤守する。 明治20年(1887年)9月、浅草井生村楼で旧自由党と立憲改進党合同の「大同団結大会」が開かれる。星亨派の壮士と衝突、重傷を負わされる。 明治21年(1888年)5月、広告社をつくる(のち湯沢精司が社長就任)。明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典に東京府会議長として参列。 明治23年(1890年)5月17日、脳病に肺炎を併発し死去。戒名は英光院操守一貫大居士。
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