自由民権運動への傾倒
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1877年(明治10年)には、東海道各宿が明治維新の際に官軍東征や天皇東幸における人馬継立費用負担の立て替え分の支払いを求め国中三郡との間で訴訟が発生し(東海道宿助郷役金訴訟)、田辺は林誾とともに総代の一人として上京する。東京では大審院に赴く一方で後の民権運動家と交友し、茨城県士族の佐野広乃や市川大門村出身の依田孝、大塚村出身の薬袋義一ら山梨県で民権運動を主導する人物らと知り合っている。 明治初期の山梨県では、騒動後に赴任した県令藤村紫朗が県政を主導し、戸区長層を取り込み県民を慰撫し殖産興業の振興や道路改修事業を実施する。藤村県政は山梨県の近代化に大きく寄与するが、明治10年代には全国的な自由民権運動と連動して県政に対する批判が噴出し、1879年(明治12年)3月に創刊された民権派の機関誌『峡中新報』を中心に反藤村運動が展開された。 峡東地域では青梅往還の全線開通や地元で立て替えた建設費用の補填のめどが立たないことから批判が噴出し、1879年(明治12年)に山梨県会が設置され第一回県会議員選挙が実施されると、田辺は東山梨郡から当選し県会議員となる。田辺は民権派県議として活躍し、1881年(明治14年)の山梨県会では八巻九万とともに県庁主導の勧業費削減論を唱える。また、林野官民有区分が実施され林野が官有地に編入されると、東山梨郡下でも萩原山などで入会慣行が否定されたことに対し批判が噴出し、有栄は矢沢正富や日下部村出身の依田道長とともに山林問題に奔走している。 全国的に流行した自由民権運動において山梨県でも国会開設運動が発議され、1880年(明治13年)には『峡中新報』株主を中心に県内初の政治結社である峡中同進会が結成される。同年5月には国会開設嘆願の出京委員に佐野、依田が選出されるが同進会に所属する田辺は県会議員の依田孝ととも補欠委員として上京し、太政官へ嘆願書を提出する。また、1889年(明治22年)の条約改正反対運動では、小田切謙明らと建白書に名を連ねている。
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