自由民権運動以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 08:17 UTC 版)
出獄後は自由民権運動に参加し、1878年(明治11年)12月、箱田六輔、頭山満、進藤喜平太等と共に向陽社を組織。1879年(明治12年)11月に開催された愛国社第3回大会では幹事を務め、1880年(明治13年)3月に開催された愛国社第4回大会においては国会期成同盟の設立に主導的な立場をとっている。1881年(明治14年)、向陽社を玄洋社と改名して初代社長に就任。1882年(明治15年)、朝鮮の壬午事変に際し、西郷軍の生き残りの野村忍助と義勇軍計画を起こすなど、早くからアジア問題に関心を示した。 その後、実業方面にも進出。赤池・豊国炭鉱などの経営に成功し、その豊富な資産で玄洋社の対外活動を支え、一方で九州鉄道の創設、官営八幡製鉄所の誘致運動などに関わり、福岡県の経済発展に貢献した。 1894年(明治27年)、第4回衆議院議員総選挙で福岡県第三区から出馬し衆議院議員に当選。以後、第9回総選挙まで連続6回当選を果たす。中国革命の支援にも情熱を注ぎ、1897年(明治30年)、日本に亡命した孫文に活動費、生活費を援助している。1898年(明治31年)には、憲政党結成に尽力し、隈板内閣樹立に努めた。国民同盟会にも参加し、ロシアの満洲侵略が顕著となると1903年(明治36年)に対露同志会に参加し対露強硬論を唱えた。1906年(明治39年)、心臓を病み10月24日死去。享年56。 1913年(大正2年)2月18日、辛亥革命を成し遂げ再び来日した孫文は、福岡市の聖福寺に平岡浩太郎の墓参に訪れている。
※この「自由民権運動以後」の解説は、「平岡浩太郎」の解説の一部です。
「自由民権運動以後」を含む「平岡浩太郎」の記事については、「平岡浩太郎」の概要を参照ください。
- 自由民権運動以後のページへのリンク