自由民権運動への参加
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西南戦争の翌年の明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)。西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。これをきっかけに自由民権運動に参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と交流を結ぶ。 高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分に気前良く金を与え「スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。
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自由民権運動への参加
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明治維新後は、地元で若松県権少属、戸長、区長などを歴任した。明治6年(1873年)2月には磐前県第14区(のちの福島県常葉町・現田村市)副戸長に任命されるが、この頃ジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み、自由民権運動に開眼する。10月には戸長になり、河野は地元で全国に率先して民会を興し、区内の民政について審議せしめた。 明治8年(1875年)に石川(のちの福島県石川町)の区長に転じた河野は地方官会議を傍聴するために上京。国会開設の建白をしたが政府の容れるところではなかった。郷里に戻り、任地である福島県石川町で石陽社を設立し、東北地方の自由民権運動のさきがけとなった。明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議した。帰郷後、三春に三師社を結成(明治11年)し、同時に福島県で民会規則の起草、県会開会の準備にあたるとともに、学塾正道館を創設(明治14年)して多くの自由民権活動家を育てた。 明治11年(1878年)、福島県庁に辞表を提出し、東北地方での民権運動に力を注ぐことになる。明治12年(1879年)、大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加。明治13年(1880年)4月の第4回愛国社大会では国会開設を政府に訴えることを決議し、片岡健吉とともに、全国から集まった8万7,000名余りの署名を代表して太政官と元老院に国会開設の請願を提出したが、却下される。明治14年(1881年)10月、自由党結成に参加。自由党幹部として、中央政界の傍ら福島県会議員、県会議長として県議会においても指導的立場にあった。 しかし、明治15年(1882年)に福島県令・三島通庸の圧政に対して福島事件がおきる。河野は、同志の田母野秀顕らと藩閥専制政府に対抗する連判状を取り交わしていたため、内乱陰謀の容疑で12月に検挙され、明治16年(1883年)に高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告された。明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布に伴う恩赦によって出獄を許された。牢から出た河野は、後藤象二郎の自由民権派を糾合する大同団結運動に参加し、大同倶楽部結成に参画する。
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