自由民権運動と女性解放運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
「日本の女性史」の記事における「自由民権運動と女性解放運動」の解説
「日本の女性解放運動」も参照 文明開化が起きると福沢諭吉をはじめとする明六社は男女同等、夫婦同等論を展開する。しかし婦人参政権には言及しなかった。自由民権運動が展開されると男女同権論が紹介され、また女性も天賦人権を自覚して立ち上がる。1879年に楠瀬喜多は女性であることを理由に区会議選挙に投票できなかった事から納税を拒否し、女性から権利主張する第一歩となった。続く岸田俊子や景山英子らが婦人参政権を求めて演説を行った。しかし1889年に公布された『衆議院議員選挙法』、あるいは市制、町村制では女性の参政権を否定される。また1890年には『集会及政社法』により女性すべての政治活動が制限される。 大正デモクラシーが展開されると、合わせて女性解放運動も活発になる。与謝野晶子と平塚らいてう、山川菊栄らは妊娠出産について母性保護論争を展開したが、それは家族制度や女性労働も含めた問題であり、女性教育や女性参政権にも範囲が及んだ。与謝野晶子は普通選挙制を要求し、文化学院を設立して男女の自由で平等な教育にあたった。平塚らいてうは女性の権利実現が子供の権利実現と同義であるとし、男女機会均等や婦人と子供の権利などを訴えて市川房枝らと共に新婦人協会を設立した。山川菊栄は赤瀾会を立ち上げ、社会主義運動のなかで労働者階級の女性解放運動を展開する。また同時期に石本静江らが産児制限運動に取り組む。 新婦人協会は女性の集会結社の自由を制限する治安警察法第5条の改正を訴え、1922年にこれを実現させる。しかし1925年の普通選挙法制定では女性に選挙権は与えられなかった。1924年に市川房枝らは婦人参政権獲得期成同盟会(翌年、婦選獲得同盟に改称)を結成し女性参政権運動を続ける。1930年には婦人公民権(地方政治への参政権)が衆議院で可決するなど進展を見せるが、満州事変以降に議論が止まってしまう。1937年に日中戦争が起きると市川房枝は、生活を守るためには政治参加の道を閉ざすべきではないとの思いから戦争に協力することを判断し、婦選運動は後退した。
※この「自由民権運動と女性解放運動」の解説は、「日本の女性史」の解説の一部です。
「自由民権運動と女性解放運動」を含む「日本の女性史」の記事については、「日本の女性史」の概要を参照ください。
- 自由民権運動と女性解放運動のページへのリンク