自由民権運動〜政界へとは? わかりやすく解説

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自由民権運動〜政界へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 23:48 UTC 版)

植木枝盛」の記事における「自由民権運動〜政界へ」の解説

明治10年1877年)、板垣退助に従って帰郷し書生となる。『無天雑録』を執筆し始める。立志社参加し立志社建白書起草西南戦争による立志社の獄では逮捕されず、高陽社創立され機関紙土陽新聞』『海南新誌』の編集・執筆にあたる。明治11年1878年4月29日愛国社再興のために四国中国地方遊説出発8月、『尊人説』を執筆12月頭山満招聘され福岡向かい向陽義塾開校式に出席して演説した1979年4月福岡で、6月大阪で、『民権自由論刊行11月5日高知立志社での演説集会条例にふれ、以後同趣旨の演説禁止され12月27日解禁。 『愛国志林』(のち『愛国新誌』)の主筆として論陣張り明治14年1881年)に私擬憲法の中では最も民主的急進的な内容とされる東洋大日本国国憲按』を起草。この草案は、ジョン・ロック影響大きいと思われる[誰によって?]。11月1日酒税増税反対し、1882年5月1日期して大阪酒屋会議を開く旨の檄文発表明治15年1882年4月8日板垣岐阜遭難受けて大阪での酒屋会議出席5月上京し自由党臨時会出席し馬場辰猪中江兆民田中耕造田口卯吉末広重恭と共に自由新聞社説担当板垣外遊をめぐる内紛のためのちに分裂明治17年1884年)、東海・北陸地方遊説して帰郷代言人試験遅刻してあきらめる。『土陽新聞明治18年1885年9月20日-10月11日に、「貧民論」を発表明治19年1886年)、高知県会議員当選明治21年1888年)、大阪向かい中江兆民の『東雲新聞』を手伝い幸徳秋水らと知り合う京都馬場辰猪追悼会と同志社設立ための会合に出席する傍ら遊説10月1日には上京し後藤象二郎労をねぎらい大同団結運動では大同倶楽部所属し大隈重信条約改正問題攻撃するため、福澤諭吉寺島宗則副島種臣訪問して反対運動工作をし、建白書執筆直後玄洋社による「大隈重信爆殺未遂事件」が起こったが、条約案は葬り去られた。 愛国公党設立尽力し明治23年1890年)の帝国議会開設にあたり高知県から第1回衆議院議員総選挙立候補し当選明治24年1891年2月24日板垣栗原亮一らとの意見違いから立憲自由党脱党愛国公党土佐派)系を率いる。8月富士山登山明治25年1892年)、第2回衆議院議員総選挙前に胃潰瘍悪化により36歳数え年)で死去。その突然の死から、毒殺説もある。墓地青山霊園にある。

※この「自由民権運動〜政界へ」の解説は、「植木枝盛」の解説の一部です。
「自由民権運動〜政界へ」を含む「植木枝盛」の記事については、「植木枝盛」の概要を参照ください。

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