田中耕造
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田中 耕造(たなか こうぞう、1851年7月26日〈嘉永4年6月28日〉 - 1883年〈明治14年〉11月7日)は、幕末から明治時代中期の日本の官吏、政治家、思想家[1]。本名は信雅。
経歴
江戸の生まれ[1]。昌平坂学問所で学び[1]、中江兆民らからフランス語を学ぶ。司法省を経て1881年(明治12年)に川路利良の付き人となった事により警視庁に入り[1]、フランスの警察制度の視察などに貢献した。
1883年(明治14年)に退職し法律講義会(後の嚶鳴社)、及び板垣退助らが創設した自由党に加入した[1]。兆民が仏学塾から刊行した雑誌「政理叢談」の翻訳及び紹介したが同年に死去した[1]。尚、足尾鉱毒事件にて「余は下野の百姓なり」と農民の立場になり、明治天皇に直訴した衆議院議員、田中正造との血統関係はない。
脚注
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