同志社設立とは? わかりやすく解説

同志社設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 08:52 UTC 版)

新島襄」の記事における「同志社設立」の解説

明治8年1875年1月新島大阪木戸孝允会い豪商磯野小右衛門から出資約束得て大阪での学校設立目指したが、府知事渡辺昇キリスト教反対のため断念し木戸勧めにより長州出身槇村正直府知事務め京都新たな候補地定めた明治8年1875年11月29日かねてより親交深かった公家華族高松保実より屋敷高松家別邸)の約半部を借り受けて校舎確保し府知事槇村正直、府顧問山本覚馬賛同得て薩摩屋敷5800坪を譲り受け官許同志社英学校開校し初代社長就任する開校時の教員新島ジェローム・デイヴィス2人生徒元良勇次郎中島力造上野栄三郎ら8人であったまた、この時の縁で翌明治9年1876年1月3日山本覚馬の妹・八重結婚する同年10月20日金森通倫横井時雄小崎弘道吉田作弥海老名弾正徳富蘇峰不破次郎熊本バンド呼ばれる青年達が同志社英学校入学明治10年1877年)には同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立女学校スタイルメアリー・リヨン設立したマウント・ホリヨーク大学模している。 明治13年1880年)から大学設立準備始める。同年2月17日快風丸での旧知訪ねるため、かつての備中松山藩であった岡山県高梁町現在の高梁市)へと赴き、滞在中に中川横太郎勧め伝道文化改革目的とした演説を行う。この時の演説は、のちに備中松山の地で高梁基督教会堂設立発起員の一人となり女子教育注力する事になる、同地婦人部会の代表であった福西志計子に深い影響与えた明治16年(1883年)5月には東京に赴き、新栄教会開催され第三回全国基督教信徒大親睦会幹部として参加する明治17年1884年4月6日2度目海外渡航出発するドイツでは訪問先のヨハネス・ヘッセの家で幼少息子ヘルマン・ヘッセ会っている。同年8月6日にはスイスサンゴタール峠心臓発作起こして倒れ二通遺書記した明治18年1885年12月帰国明治19年1886年9月には京都看病婦学校同志社病院)がキリスト教精神における医療保健看護活動キリスト教伝道拠点として設置されその役割を担う。この看病学校病院にて看護指導に当たる事となったのが、ナイチンゲール師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあったリンダ・リチャーズである。 明治21年1888年)、徳富蘇峰協力により井上馨大隈重信土倉庄三郎大倉喜八郎岩崎弥之助渋沢栄一原六郎益田孝等から寄付金約束取付ける。特に土倉新島のよき理解者協力者であり、新島土倉頼りとした。板垣退助新島取り結んだのも自由民権運動パトロンでもあった土倉であろう推測される。 また明治21年1888年11月徳富蘇峰は襄の求め応じ同志社大学設立の旨意」を添削し自身経営する民友社発行の『国民之友』をはじめ全国主要な雑誌新聞掲載し同志社大学設立尽力した

※この「同志社設立」の解説は、「新島襄」の解説の一部です。
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