同志社社長時代
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明治23年(1890年)1月の新島襄死去の後、同年3月に同志社校長となり(当時34歳)、明治25年(1892年)同志社社長を兼ねた。明治26年(1893年)にはアメリカシカゴで行われた世界宗教大会に日本基督教代表として出席し、「日本におけるキリスト教の大勢」と題して演説を行った。この演説は日本文化・思想の優位性を強調したもので、外国人宣教師は伝道先の国の文化を理解するのは困難であるからその国の知識人と交わる程度にとどめるべき、日本を訪れる宣教師は日本思想界を凌駕するほどの一流の学者であるべきだといった内容であったため、宣教師から不評を買い、ハートフォード新聞に批判記事が載った。世界宗教大会出席後はイェール大学で8か月間神学研究を行うなどした。 帰国後、同志社に派遣されていたアメリカン・ボードの宣教師たちとも軋轢が生じ、ついに明治29年(1896年)、外国人宣教師団は同志社と絶縁するに至った。翌年、小崎は学内混乱の責任をとって社長を辞任。
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