肥後の猛婦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 14:32 UTC 版)
一本気で不器用な熊本男児の気質を表す「肥後もっこす」。熱く頑固なこの気質は女性にも共通し、「肥後の猛婦」という言葉もある。大宅壮一は戦後、熊本県を「天皇引き取り県」といい、また「肥後猛婦」という言葉も作りだした。幕末、維新に活躍した熊本藩儒学者横井小楠の親族や弟子に縁のある女性たちが多く、楫子をはじめ男女同権や社会運動を目指した。 竹崎順子(1825-1905)矢島家3女で、熊本女学校(現・熊本フェイス学院高等学校)を創立した女子教育の先覚者。 徳富久子(1829-1919)同家4女で、徳富家に嫁し蘇峰、蘆花の母。楫子の矯風事業を援助した。 横井つせ子(1831-1894)同家5女で小楠の妻となるが実際は「妾」同然。夫を「殿」、わが子を「さん」付けし、子供からは「お乳」と呼ばれた。 湯浅初子(1860-1935)蘇峰、蘆花の姉。日本で最初の男女共学を受けた。禁酒・廃娼運動家。 海老名みや子(1862-1935)小楠の長女。同志社設立に奔走。 徳富愛子(1874-1947)蘆花夫人。夫と作家活動、「蘆花全集」を出版。 久布白落実(1882-1972)蘇峰らの姪。廃娼、婦人参政権運動に尽力。 郷里熊本には彼女らの足跡を巡る「肥後の猛婦」市電コースがある。
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