自由民権運動期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:31 UTC 版)
日本において最初に君主制の廃止を論じたものは自由民権運動における「共和主義」的な主張である。ただし、後世の天皇制廃止論と違うのは幕藩体制に代わる専制的な権威に対する否定を目的とした主張であったこと、当時はまだ天皇を中心とした国家観が完成されておらず、未だ流動的な時期におけるものであったことである(したがって、「天皇制」という言葉がまだ存在していなかった時期に相当する)。 中江兆民の『三酔人経綸問答』では、洋学紳士なる人物に、立憲制より民主制(共和制)の方が優れており、立憲制は君主の専制から脱出するための(途中駅の)「駅舎」に過ぎないといわしめた。ただし、兆民は「君民同治の社会」において、天皇と民権論とは矛盾しないとした。また、植木枝盛や馬場辰猪なども国家は君主制から立憲制を経て共和制に向かうとする説を唱えている。小田為綱によるとされる私擬憲法『憲法草稿評林』は国民投票によって皇帝(天皇)は廃立出来るとした。 天皇を「神聖ニシテ不可侵」「統治権ノ総攬者」と規定した大日本帝国憲法の制定以後に幸徳事件が起きる。この事件は社会主義・共産主義勢力を一掃しようとする当時の軍閥と検察(平沼騏一郎や山縣有朋ら)によるでっち上げであったが、宮下太吉ら明治天皇暗殺計画については、計画に関わった四人は認めている。宮下らの暗殺計画によれば、天皇が「死ぬ」ということで、天皇は神でなく人間であるということ(現人神観否定)を目指したものだった。なお宮下らの思想的指導者であった幸徳秋水は計画には関与していなかったが、かつて兆民とともに天皇制については否定してはいなかった。のち無政府主義から共産主義に到る思想を独自に再構成するなかで、天皇制廃止論に傾いていった。 大逆事件以降、天皇制そのものの是非を語ることは次第に禁忌となっていったが、坂野潤治は尾崎行雄の共和演説事件を自由民権運動時代の頃の共和制論議の時のように安易に共和制について触れたことが政治問題化したと唱えている。
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