自由法典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/24 22:06 UTC 版)
「マサチューセッツ湾植民地」の記事における「自由法典」の解説
最初の改革は完璧であった。貿易会社は典型的な民主政治になった。 1641年までに、ジョン・コットンの草案(「ニューイングランドの法の概要、今設立されたものとして」)を基にナサニエル・ウォードを中心にして書かれた最初の法典「マサチューセッツ自由法典」(ボディ・オブ・リバティ)が整備された。これは、聖書に記載されているユダヤ教とキリスト教に共通の社会的制裁に訴えることで、人々の行動と罰を規定するものであった。ナサニエル・ウォードの意図は、少数の指導者の裁量によらない、基礎となる法による植民地政治の運営にあった。 彼らは自分達の主唱する神政政治と形を取りつつあった民主政治の間の緊張関係を見ていなかったことは注目に値する。その反対に一方の政治が他方を要求するとすら見ていた。例えば、「全ての判事は選ばれるべきこと。第1に自由人によって。第2に自由人の中から。」とされていた。実際に植民地で最初に処刑された者は、魔女であると告発された女医のマーガレット・ジョーンズであった。 ジョン・ウィンスロップは、ピューリタンの植民地は「丘の上の町」であるべき、すなわちその信仰するところが他の植民地から追従されるようになるべきと考えた。1637年に総督に返り咲いたウィンスロップはこの自由法典に異議を唱えた。内容に反対したのではなく、彼にとってこのような規則は、執政官(総督と助役)による聖書の解釈が蓄積された結果でなければならなかった。しかし1641年12月、総会はウォードの自由法典を可決した。それでも会衆派ではないイギリス国教徒らは、参政権を認められないことで不満が残り、以後も請願や抗議が続くこととなる。
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