自由派の反対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:27 UTC 版)
ブラジル憲法の内容は自由主義的だったが、中央集権体制を採用したため、地方には実質的な自治権がなかった。その結果、1824年には北東部数州で赤道連邦の反乱(英語版)が勃発した。反乱は簡単に鎮圧されたが、ブラジルの国制への不満の表れとなった。1825年末、今度は南部のシスプラチナ州で分離主義者の反乱が勃発した。ほかの州と違い、シスプラチナ州は植民地時期にスペインとポルトガルの間で領有権が争われた結果、ポルトガル系とスペイン系米州人の両方で構成された。リオ・デ・ラ・プラタ連合州が正式にシスプラチナ州を併合すると、ブラジルは連合州に宣戦布告した。ブラジルはここにシスプラチナ戦争と呼ばれる、「南部での長く、不名誉な、そして結果的には無駄な戦争に引き込まれた」。開戦から数か月後の1826年3月、ジョアン6世が死去した。ペドロ1世はペドロ4世としてポルトガル王に即位、ブラジル独立戦争終結からわずか2年後にポルトガルとブラジルが再び同君連合を組むこととなった。ペドロ1世はすぐにポルトガル王から退位して王位を長女マリア2世に譲ったが、マリアがわずか7歳だったためペドロ1世は引き続きポルトガルの政局に関与した。 制憲議会解散から2年後の1826年5月に議会が再び開会したとき、ペドロ1世は「立憲政府とブラジル独立への支持の真摯さが広く疑われてい」る状況にあった。ペドロ1世と議会の多くの議員は「選挙で選出された立法機関と独立した司法を有する立憲制でありながら、卓越した才能と強運でゆるぎない権威を有する覇者が統治する」という理想を持った。一方、それ以外の議員は「人民、またはより正確にいうと『文明的』とされる人民(すなわち、統治層のみ)が権威の源であり、彼らが選出した代表が権力を保持する」という制度を受け入れている。2派のうち、後者はブラジル初の「自由党」と呼ばれる緩い同盟を形成した。この自由党は地域自治の拡大も支持した。「矛盾した2つのイデオロギーは1826年から1831年までの全ての戦闘の根底にある。これらの戦闘では統治制度、政治プロセスの機能、外交で追求すべき目標について争われた」。1828年にシスプラチナ戦争が終結して、シスプラチナ州がウルグアイという共和国として独立したこととペドロ1世の弟ミゲル王子がマリア2世の王位を簒奪したことで情勢がさらに悪化した。ブラジルとポルトガルの政局を同時に対処できなかったペドロ1世はブラジル皇帝からの退位を決断、1831年4月7日に帝位を息子(後のペドロ2世)に譲るとすぐにヨーロッパに向かい、娘を女王に復位させた。
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