自由派憲政党とは? わかりやすく解説

自由派憲政党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 13:54 UTC 版)

憲政党」の記事における「自由派憲政党」の解説

10月29日憲政党臨時大会開かれ、旧自由党側が旧進歩党反対押し切り解党決議された。その後憲政党解党届が提出され、それと同時に新たに結成される憲政党」(自由派憲政党)の結党届も出された。内相板垣であったこともあり、届出その場受理され党名のみならず綱領規約までそのままの、自由派のみによる新し憲政党発足した事情知らされた旧進歩党直ち抗議したが、解党届、結党届ともに正規のものであるとして却下され、更に党本部党名などについても内務省全て自由党の肩を持ち政争は旧自由党完勝終わった大隈10月31日辞表提出、旧進歩党やむなく憲政本党発足させるも、内閣11月8日総辞職した新し自由党事実上指導者となった星亨は、隈板内閣崩壊することを見込んで藩閥側と連立交渉行っており、隈板内閣ののちに成立した第2次山縣内閣において、与党として参画する入閣については人数の面で折り合いがつかなかったため閣外協力の形となったが、山縣憲政党国策への関与については妥協的な態度をとったため、主に以下の妥協条件合意された。 超然主義放棄すること。 憲政党政策のうち、政府の方針一致するものを議会提出すること 憲政党利害一致させ、将来にわたり連携すべきこと 山縣内閣憲政党与党として、約2年にわたり安定的に政権運営し懸案地租増徴をはじめ、府県制改正文官任用令改正衆議院議員選挙法改正などの施策議会協賛の内に行った。 しかしこれらの施策の内、文官任用令改正1899年3月28日成立)については、政党員の高級官僚への任命政治任用)の狭めるものであったため憲政党ひと悶着あり、このころから憲政党は、"山縣以後"の連携先を模索し始める。ちょうどこの頃伊藤博文筆頭元老が、政党内閣制確立標榜し、独自の新党結成向けて各地遊説始めていた。憲政党は旧自由党時代第2次伊藤内閣与党になって以来伊藤との間に友誼関にあったため、伊藤憲政党への入党進めるなど、意見交換始めた1900年に入ると、山縣内閣憲政党との間の仲違いの度が激しくなってくる。憲政党側は板垣党幹部入閣もしくは閣僚入党求めたが、山縣議会中であること、皇太子大正天皇)の成婚式(同年5月10日)などを理由確約与えず更には辞意を漏らすようになった。星は、山縣辞意漏らした5月31日、ただちに現内閣との提携断絶宣言そのまま伊藤筆頭元老のもとへ向かい憲政党への入党要請した伊藤は、自身本意既成政党宿弊矯正であって伊藤本人主体となって新党結成することである、と返答した。そのため、星は憲政党解党伊藤新党に丸ごと合流することによって、党勢拡張することを決定する伊藤山縣了解得たうえで、8月25日新党創立委員会開かれる9月13日憲政党解党15日には伊藤総裁とする立憲政友会結成され同時に自由党以来盟主であった板垣政界引退した。これと前後して山縣首相辞任して立憲政友会第4次伊藤内閣政権与党として支えることとなる。

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