自由派憲政党
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翌10月29日、憲政党臨時大会が開かれ、旧自由党側が旧進歩党の反対を押し切り、解党が決議された。その後、憲政党の解党届が提出され、それと同時に、新たに結成される「憲政党」(自由派憲政党)の結党届も出された。内相が板垣であったこともあり、届出はその場で受理され、党名のみならず綱領・規約までそのままの、自由派のみによる新しい憲政党が発足した。事情を知らされた旧進歩党は直ちに抗議したが、解党届、結党届ともに正規のものであるとして却下され、更に党本部や党名などについても内務省は全て旧自由党の肩を持ち、政争は旧自由党の完勝に終わった。大隈は10月31日に辞表を提出、旧進歩党はやむなく憲政本党を発足させるも、内閣は11月8日に総辞職した。 新しい自由党の事実上の指導者となった星亨は、隈板内閣が崩壊することを見込んで藩閥側と連立交渉を行っており、隈板内閣ののちに成立した第2次山縣内閣において、与党として参画する。入閣については人数の面で折り合いがつかなかったため閣外協力の形となったが、山縣も憲政党の国策への関与については妥協的な態度をとったため、主に以下の妥協条件が合意された。 超然主義を放棄すること。 憲政党の政策のうち、政府の方針と一致するものを議会に提出すること 憲政党と利害を一致させ、将来にわたり連携すべきこと 山縣内閣は憲政党を与党として、約2年にわたり安定的に政権を運営し、懸案の地租増徴をはじめ、府県制改正、文官任用令改正、衆議院議員選挙法改正などの施策を議会の協賛の内に行った。 しかしこれらの施策の内、文官任用令改正(1899年3月28日成立)については、政党員の高級官僚への任命(政治任用)の枠を狭めるものであったため憲政党とひと悶着あり、このころから憲政党は、"山縣以後"の連携先を模索し始める。ちょうどこの頃、伊藤博文筆頭元老が、政党内閣制の確立を標榜し、独自の新党結成に向けて各地の遊説を始めていた。憲政党は旧自由党時代に第2次伊藤内閣で与党になって以来伊藤との間に友誼関係にあったため、伊藤に憲政党への入党を進めるなど、意見交換を始めた。 1900年に入ると、山縣内閣と憲政党との間の仲違いの度が激しくなってくる。憲政党側は板垣ら党幹部の入閣、もしくは現閣僚の入党を求めたが、山縣は議会中であること、皇太子(大正天皇)の成婚式(同年5月10日)などを理由に確約を与えず、更には辞意を漏らすようになった。星は、山縣が辞意を漏らした5月31日、ただちに現内閣との提携断絶を宣言、そのまま伊藤筆頭元老のもとへ向かい、憲政党への入党を要請した。伊藤は、自身の本意は既成政党の宿弊の矯正であって、伊藤本人が主体となって新党を結成することである、と返答した。そのため、星は憲政党を解党、伊藤新党に丸ごと合流することによって、党勢を拡張することを決定する。 伊藤が山縣の了解を得たうえで、8月25日、新党の創立委員会が開かれる。9月13日、憲政党が解党。15日には伊藤を総裁とする立憲政友会が結成され、同時に旧自由党以来の盟主であった板垣は政界を引退した。これと前後して山縣も首相を辞任して、立憲政友会は第4次伊藤内閣を政権与党として支えることとなる。
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