田辺有栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 08:58 UTC 版)
田辺 有栄(たなべ ゆうえい、1845年11月6日(弘化2年10月7日)[1] - 1911年(明治44年)9月14日)は、日本の政治家、実業家。
- ^ 『山梨百科事典』増補改訂版、595頁。
- ^ 倉田利作は山梨郡隼村の長百姓で郡中惣代を務める。大小切騒動の裁判では首謀者二名が絞刑となったが利作は準流10年の刑となり、甲府代官所の徒刑場に収容される。利作は1873年(明治6年)6月7日夜に囚人数名とともに脱獄し、県令土肥宅の襲撃を企てたが、土肥はこのとき免官となり不在であった。利作は再び捕縛され、8月23日に斬首された。
- ^ 田辺は第三組合の株主総理になっている。
- ^ 明治13年6月5日「国会開設請願書・署名簿」『山梨県史』資料編資料編14近現代1政治行政Ⅰ所載
- ^ 田辺が民権運動を離れた理由について、『郡誌』では参議副島種臣を訪ね時勢を論じたことがきっかけになっている言われる。また、この頃民権運動は豪農層が松方デフレの影響を受け、明治14年・15年の水害復旧補助金を政府に請願するため藤村県政と同調しておく必要があったため低調になっており、1882年(明治15年)の佐野広乃の死を契機に衰退へ向かっている。山梨県における民権運動の展開については、有泉貞夫「自由民権運動」『塩山市史』、有泉「民権運動の衰退」『山梨県史』通史編5近現代1。
- ^ 初鹿野は一丁田中村(現・山梨市)出身の富豪で、県会議員。なお、1区では小田切謙明が敗北して八巻九万、3区は古屋専蔵が当選。
- ^ 八万は大成会に所属
[続きの解説]
固有名詞の分類
- 田辺有栄のページへのリンク