政界引退から晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/09 07:14 UTC 版)
1892年(明治25年)の第2回衆議院議員総選挙では出馬せず政界を引退するが、反公道会派の筆頭として公道会派と対立する。公道会派との対立は東山梨郡下の村会議員選挙などにおいて激化しており、第二回総選挙において田辺が二区の民党系候補であった薬袋を支持すると、公道会派は依田道長を推薦し、公道会派は壮士を動員して激戦な選挙戦を繰り広げた。また、公道会派との対立は経済界にも及び、1900年(明治33年)には公道会派銀行に対抗し、七里村で開業した山梨銀行の頭取となる。 明治44年に死去。墓所は山梨県甲州市の向嶽寺。『県資』14では県内民権運動家の書簡を集めた「政治関係書簡」に「田辺家文書」が収録されているほか、『塩山市史』資料編にも関係文書が収録されている。
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