政界引退・死去
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1911年(明治44年)8月25日、第2次桂内閣は総辞職し、8月30日、第2次西園寺内閣が成立した。桂は、小村の外相留任を希望していたが、原敬を中心とする与党の立憲政友会は、桂の影響力が新内閣に残るのを嫌い、後継外相に内田康哉を迎えた。 外相を辞して政界を引退した小村は、9月に神奈川県葉山町に転居した。貧乏生活は変わらなかったが、好きな酒を飲み、読書を楽しみながら生活した。腸チフス、肺尖カタル、肋膜肺炎と大病を繰り返していた小村だが、1910年にも肛囲炎で2度の手術を受けて、満身創痍の状態であった。 11月に入り、熱が出始め、11日には肺に痛みを感じるようになったため床に伏せるようになった。しかし、読書熱は衰えずアルフレッド・テニスンの詩集は常に傍らに置いていた。来客ともよく語り、特に親友の杉浦重剛が見舞いに来た際には喜んで長時間話し込んだ。容体が急変したのは11月22日のことである。23日には脳膜炎の症状が現れ、24日に桂と寺内が訪ねてきたときには言葉を交わすことができなかった。25日は杉浦ら旧友が集まったが、小村は呼吸困難な状態であり、やがて危篤に陥った。11月26日、小村寿太郎は葉山の自宅で死去した。満56歳だった。12月2日、小村の外務省葬が執り行われた。墓所は東京都港区の青山霊園にある。
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政界引退・死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:10 UTC 版)
民主党政権発足翌年の2010年(平成22年)9月28日、時事通信社の取材において、政界引退を表明した。 2012年(平成24年)11月16日の衆議院解散で政界引退。「自民党の政治に終止符を打ったのは、今でも歴史の必然、私に課せられた天命だった」とした上で、2009年の政権交代は「私なりに満足のいく、改革の成果」であるとした。今後の活動については「多難な時期を迎えた我が国の再生にわずかなりともご奉公できる道を探し続ける」とコメント。長年の盟友である小沢は「議会制民主主義を確立させるべく、長年共に歩んだ同志。勇退は誠に残念だ。政治の第一線を退かれても、引き続きこの国の将来のため、親しく指導していただきたい」と述べた。 同2012年の衆議院議員選挙では、地元(長野3区)後援会からは長男の羽田雄一郎(当時:国土交通大臣)を後継として参議院から鞍替え出馬させようという意向もあったが、時の首相であった野田佳彦が民主党のマニフェストにも盛り込んだ世襲禁止の方針からこれを認めなかった。 2013年(平成25年)4月29日、桐花大綬章を受章。 2017年(平成29年)8月28日午前7時6分、東京都世田谷区の自宅で老衰のため死去。満82歳没。同年9月5日、従二位追叙が日本政府により決定された。
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