政界復帰と八条院への接近
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政界復帰後の頼盛は、清盛の力の大きさを痛感したらしく、従順な行動をとるようになる。清盛も頼盛を完全に排除するのは得策でないと判断したようで、以後は自らの手足として積極的に活用する動きが見受けられる。嘉応元年(1169年)12月の嘉応の強訴では、頼盛は重盛・宗盛とともに官兵を率いて待機していた。後白河院が藤原成親擁護の方針を打ち出して抗争が激化すると、清盛は福原に頼盛・重盛を呼び出して状況を報告させている。このことは、頼盛・重盛が京都防衛の責任者であったことを示している。 清盛が頼盛を重用した理由としては、八条院の存在が挙げられる。八条院は美福門院の娘で、父母から荘園の大半を譲られて大きな財力・武力を有し、二条天皇の准母としてその後ろ盾となっていた。二条親政派が瓦解してもその勢力は衰えず、後白河院や平氏にとっては敵に回すことが憚られる存在だった。 頼盛は建春門院とは疎遠だったが、八条院とは美福門院以来のつながりがあり、邸宅も接していた。八条院の乳母は源国房の娘で宰相局と呼ばれていたが、頼盛は宰相局の娘で八条院女房の大納言局を妻に迎え、光盛が生まれている。光盛は承安2年(1172年)の生まれなので、両者の婚姻は承安元年(1171年)以前と見られる。おそらく皇太后宮権大夫を辞任したことで拠り所を失ったため、八条院の庇護を求めたものと推測される。後に源頼朝は荘園33ヶ所を頼盛に返還しているが、そのうちの14ヶ所が八条院領だったことを見ても関係の深さがうかがえる。 しかし、この間の官位の昇進ははかばかしいものではなく、長らく正三位・参議のままだった。それでも頼盛は、承安4年(1174年)8月、近衛基通の従三位叙位の拝賀に清盛の指示で付き従い、安元2年(1176年)3月、後白河院の50歳の賀のため法住寺殿で催された式典に一門の人々とともに出席するなど、表向きは協調の姿勢を見せていた。
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