政界復帰と八条院への接近とは? わかりやすく解説

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政界復帰と八条院への接近

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:37 UTC 版)

平頼盛」の記事における「政界復帰と八条院への接近」の解説

政界復帰後の頼盛は、清盛の力の大きさ痛感したらしく、従順な行動をとるようになる清盛も頼盛を完全に排除するのは得策でないと判断したようで、以後は自らの手足として積極的に活用する動き見受けられる嘉応元年1169年12月嘉応の強訴では、頼盛は重盛宗盛とともに官兵率いて待機していた。後白河院藤原成親擁護方針打ち出して抗争激化すると、清盛福原に頼盛・重盛呼び出して状況報告させている。このことは、頼盛・重盛京都防衛責任者であったことを示している。 清盛が頼盛を重用した理由としては、八条院の存在挙げられる八条院は美福門院の娘で、父母から荘園大半譲られ大きな財力武力有し二条天皇准母としてその後ろ盾となっていた。二条親政派が瓦解してもその勢力衰えず後白河院平氏にとっては敵に回すことが憚られる存在だった。 頼盛は建春門院とは疎遠だったが、八条院とは美福門院以来つながりがあり、邸宅接していた。八条院の乳母源国房の娘で宰相局と呼ばれていたが、頼盛は宰相局の娘で八条女房大納言局を妻に迎え、光盛が生まれている。光盛は承安2年1172年)の生まれなので、両者婚姻承安元年1171年以前と見られる。おそらく皇太后宮権大夫辞任したことで拠り所失ったため、八条院の庇護求めたものと推測される。後に源頼朝荘園33所を頼盛に返還しているが、そのうち14ヶ所が八条院領だったことを見ても関係の深さうかがえる。 しかし、この間官位昇進はかばかしいものではなく長らく正三位参議のままだった。それでも頼盛は、承安4年1174年8月近衛基通従三位叙位拝賀清盛指示付き従い安元2年1176年3月後白河院50歳の賀のため法住寺殿催され式典一門人々とともに出席するなど、表向き協調姿勢見せていた。

※この「政界復帰と八条院への接近」の解説は、「平頼盛」の解説の一部です。
「政界復帰と八条院への接近」を含む「平頼盛」の記事については、「平頼盛」の概要を参照ください。

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