政界復帰後の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/07 07:00 UTC 版)
1928年(民国17年)、アメリカに留学してシカゴ大学で研究に従事し、政治学修士の学位を取得した。帰国後の1931年(民国20年)1月、国民党第4期中央執行委員に選出され、同年5月、国民政府内政部政務次長に任命されている。1934年(民国23年)12月、内政部部長を暫時代理した。翌年2月、軍事委員会委員長行営第五処処長に任ぜられ、11月、党第5期中央執行委員に選出される。 日中戦争(抗日戦争)勃発後の1938年(民国27年)3月、内政部禁煙委員会常務委員に任ぜられ、翌月、党中央党部副秘書長となった。また康沢とともに三民主義青年団の結成準備を進め、同年7月、臨時中央幹事会幹事に任ぜられている。翌年3月、軍事委員会戦地党政委員会委員に任ぜられ、後にも国防最高委員会副秘書長、中央設計局副秘書長となって、戦時体制の整備に従事している。1945年(民国34年)5月、党第6期中央執行委員に選出され、8月、外交部政務次長に起用された。 戦後の1947年(民国36年)4月、行政院秘書長に異動する。同年冬に、行憲国民大会代表にも当選した。翌1948年(民国37年)5月、駐オーストラリア大使に任命され、赴任する。1951年に同職を辞任し、そのままオーストラリアに留まった。1956年9月30日、シドニーで病没。享年60。
※この「政界復帰後の活動」の解説は、「甘乃光」の解説の一部です。
「政界復帰後の活動」を含む「甘乃光」の記事については、「甘乃光」の概要を参照ください。
- 政界復帰後の活動のページへのリンク