県議・衆議院議員時代
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1890年(明治23年)3月、帝国議会開設を控えた県議改選において依田道長、中沢仁兵衛らとともに再選を希望すると、田辺と対立し中沢・依田を推薦するグループが「公道会派」を称して対抗し、東山梨郡下において公道会派と田辺を筆頭とする反公道会派(田辺派)の構図は昭和初年まで続く党派的対立となった。 帝国議会開設を前に県下でも政治結社が結成されるが、田辺は古屋専蔵や八巻九万、根津嘉一郎らとともに山梨同志会に参加し、同年の第1回衆議院議員総選挙では山梨県第二区(東山梨郡・南都留・北都留郡)から出馬し、公道会派候補の初鹿野市右衛門を破り当選し、山梨県初の衆議院議員として中央政界へ進出する。第一回帝国議会では古屋とともに院内会派に属していないが、第二回帝国議会では民党系の巴倶楽部に所属し、蚕糸検査法や輸出税免除法案の成立に務めているほか、死刑廃止論の発議にも参加している。
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