兵庫県議〜衆議院議員時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:34 UTC 版)
同年に賀川豊彦、河上丈太郎らの勧めで兵庫県会議員選挙に日本労農党から出馬して当選する(1期目は神戸市、2期目以後は尼崎市)。県会議員活動の傍ら、社民系の政治団体「社会思想社」に所属して『洛陽飢ゆ』や『戯曲資本論』などを発表し、プロレタリア文学や唯物史観評論の分野で活躍した。しかし、3期目の当選直後に選挙違反の疑いを受けて失格とされ、以後は実家の病院を経営しながら作家活動に入る。 1940年(昭和15年)に元兵庫県知事の湯沢三千男が理事長を務める大日本産業報国会に招かれて文化部長に就任、続いて湯沢が内務大臣のもとで行われた1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)では大政翼賛会推薦候補として兵庫県第2区から立候補し、当選した。同年には『新世界観の構想』を著し、次第にファシズム・浪漫主義への接近を見せる。
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