民権運動への参加
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1879年(明治12年)11月大江孝之、広瀬重雄等と静陵社を結成し、演説による政治活動を開始した。11月30日の第1回演説会では沼間守一の説に同調して「権限論」を演説し、静岡県会議員等による国賓ユリシーズ・グラントの饗応を越権行為と非難した。1880年(明治13年)4月集会条例により一時解散したが、11月活動を再開した。 1880年(明治13年)8月3日静岡県会議員に当選し、備荒儲蓄法反対運動に同調し、12月3日県会解散後、1881年(明治14年)1月再選された。予算審議において河川改修費を国庫負担とする建議を申し立てるも賛同者を得られず、一方異議を唱えた郡長公選制の建議は可決されるなど、議員としての成果は上がらず、1881年(明治14年)6月24日辞任した。 1881年(明治14年)小林喜作等資産家の出資を受けて静岡両替町四丁目10番地に撹眠社を創立し、土居光華を社長、荒川高俊を客員として10月1日『東海暁鐘新報』を創刊した。
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