民本主義の主張
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1914年(大正3年)1月、『中央公論』編集主幹の瀧田樗陰に頼まれ、同誌に「学術上より見たる日本問題」を寄稿し、国際社会の一員としての日本人のあり方に批判的な目を向けている。4月号には「民衆的示威運動を論ず」を寄稿、日本の民衆運動にも民衆の自覚という肯定的な面を主張した。 1915年(大正4年)、『中央公論』7月号の「大正政界の新動向」論説で古川学人という筆名を使用した。同年、法学博士号を授与される。1916年(大正5年)、同誌1月号に代表作となった評論「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表。大正デモクラシーの代表的な論客となる。1918年(大正7年)、白虹事件が起こると、吉野は言論の自由を擁護して浪人会の暴行事件を非難、同会との間で立会演説会を開き聴衆の圧倒的支持を得た。これをきっかけに福田徳三・今井嘉幸らとともに「頑迷思想の撲滅」をめざす黎明会を結成。 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で研究室と図書館が火災に遭った際、吉野は貴重な資料を取り出そうとして燃える図書館に二度突入を試みたが、果たせず。炎を見上げながら立ち尽くす吉野の頬を数条の涙が光っていたという。1924年(大正13年)11月、東大教授の職を辞任し、東京朝日新聞に編集顧問兼論説委員として入社するが、政治評論がもとで同年退社。1924年2月7日、東京帝大教授をやめ、朝日新聞社に入社し、4月1日-6日「枢府と内閣」で筆禍、5月29日退社した。東大の講師に戻り、11月明治文化研究会を組織。尾佐竹猛、石井研堂、宮武外骨、小野秀雄、藤井甚太郎ら、在野の人物を含む異色のメンバーを集めたことは、吉野の視野の広さと包容力の大きさを現している。同会のメンバーと『明治文化全集』30巻の刊行(1927年10月5日-1930年7月25日)に尽力する。吉野及び宮武の収集が、東大の明治新聞雑誌文庫の基になった。 1927年(昭和2年)、女子経済専門学校(現東京文化学園)理事・教授。晩年は無産政党との関係を強め、右派無産政党である社会民衆党の結成に関わっている。なお、赤松克麿は吉野の娘婿である。 1933年(昭和8年)1月、肋膜炎を発症し神奈川県三浦郡逗子町の湘南サナトリウムに入院。3月18日、55歳で死去。
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