民権運動の挫折
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1888年(明治21年)1月静岡有志懇親会において後藤象二郎が呼びかけた大同団結運動に賛同し、3月後藤の黒田内閣入閣により運動が分裂すると、大同倶楽部に所属した。4月衆済病院長荒井作を頼って清での新事業を計画し、資金を募っているが、渡航中の記録は残っていない。 1888年(明治21年)7月16日大日本帝国憲法発布大赦令により乗輿讒毀罪は消滅したため、8月1日代言人組合に再加入し、同月静岡大同倶楽部に参加した。1890年(明治23年)第1回衆議院議員総選挙に静岡県第1区から自由党候補として立候補したが、最下位で落選した。1892年(明治25年)第2回衆議院議員総選挙にも落選して政治活動からも身を引き、以降弁護士業に専念した。 1891年(明治24年)静岡の弁護士事務所を両替町に移転し、浜松に支所を設けた。1892年(明治25年)11月大阪府曽根崎村に出張所を設けたが、1894年(明治27年)7月閉鎖し、両替町の事務所を馬場町に移した。
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