小林喜作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/29 15:03 UTC 版)
1875年(明治8年)長野県南安曇郡西穂高村(現在の安曇野市)牧に生まれ、17歳からカモシカ・クマなどの猟師をしていた。息子の一男と共に大天井岳から槍ヶ岳に直接至る東鎌尾根に喜作新道を開設した。鍬・鶴嘴・鳶口・手斧などを用い人力で、1917年(大正6年)に工事を開始し、1920年(大正9年秋)に完成させた。1921年(大正10年秋)には、殺生小屋を完成させた。山案内人として、1920年に槍ヶ岳の北鎌尾根の初下降及び1922年の初登攀のサポートを行った。陸地測量部の測量官らと共に北アルプスの測量作業にも参加した。1918年(大正7年)7月に、槍ヶ岳山荘の創設者の穂苅三寿雄の穂高連峰縦走の案内人を務めた際に「北アルプスで登れない山は一個もない。ただ野口五郎岳の西沢だけは登っても下ることができない。」と語り、北アルプスの隅々まで猟師として歩き回っていたことが伺える。
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