日本での近代登山の幕開け
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明治時代(1868年 - 1912年)、1874年にガウランド、アトキンソン、サトウの三人の外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを用いた登山を日本で初めて六甲山で行った。ガウランドは1881年に槍ヶ岳と前穂高岳に登山して「日本アルプス」を命名した人物で、サトウは富士山に最初期に登った外国人としても知られる。 日本アルプスには、上記3名のほか、ウォルター・ウェストン、バジル・ホール・チェンバレン、フランシス、ミルン など複数の欧米人が登った。15版まで重版されるベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』が1894年(明治27年)10月に出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史の第一期とする見方がある。 その見方では、それ以降参謀本部陸地測量部による1913年(大正2年)の地図刊行までをその第二期とする。第二期には、冠松次郎、木暮理太郎、小島烏水、近藤茂吉、三枝守博、武田久吉、田部重治、鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った。陸地測量部は館潔彦、柴崎芳太郎などの測量官を派遣し、一等三角測量を完成し、地図を刊行した。第二期を、小島烏水は日本登山史上の探検時代と呼んでいる。 明治期の日本アルプスの登山では、長野県の内野常次郎、上條嘉門次(梓川渓谷)、小林喜作(中房渓谷)、遠山品右衛門(高瀬川渓谷)、横沢類蔵、富山県の宇治長次郎、佐伯源次郎、佐伯平蔵、山梨県の大村晃平、中村宗義(早川谷)など、地元の猟師が案内をした。 日本の「近代登山」の始まりをどの時点に置くかは、人によって解釈が様々であるが、1874年(明治7年)に六甲山における、ガウランド、アトキンソン、サトウの3人の外国人パーティによるピッケルとナーゲルを用いた登山が、日本の近代登山の最初とされることが多い。1889年(明治22年)には、ウェストンによってテント・ザイル等が持ち込まれ、ウェストンの助言で小島烏水らが1905年(明治38年)に日本で最初の山岳会「山岳会」(後の「日本山岳会」)を設立した。この年を近代登山の始まりとする説もある。また今西錦司の言うように1918年(大正7年)の第一次世界大戦の終戦時をもって近代登山の幕開けとされることもある。 明治時代、北アルプスの地元では、学校登山が行われた。1883年(明治16年)に窪田畔夫と白馬岳に登った渡辺敏は、長野高等女学校校長時代、理科・体育教育の目的で、1902年(明治35年)より毎年、戸隠山、白馬岳、富士山などへの登山を実施した。富山師範学校教諭の保田広太郎は、1885年(明治18年)頃より、学生を連れて立山などに登った。河野齢蔵は1893年(明治26年)から動植物採集の目的で北アルプスの山々に登り、大町小学校校長のとき、学校で登山を奨励した。 明治時代、測量や地理学的な目的での登山が行われた。1882年(明治15年)8月の内務省地質測量長ナウマン博士の命令による横山又次郎一行の南アルプス横断、1885年(明治18年)全国地質測量主任ライマンの助手坂本太郎の槍ヶ岳-薬師岳縦走、1889年(明治22年)農商務省地質調査所の大塚専一による針ノ木岳-立山-後立山縦走などである。 陸地測量部によって、1907年(明治40年)までに、日本アルプスの主峰のほとんどに、三角点が設置された。 探検時代の後、明治末から大正にかけて、日本アルプスへ登山する人たちが増え始め、大正期に大衆化した1915年(大正4年)の上高地 大正池の出現や、皇族の登山などが、人々を山へ誘った これを受けて、1907年(明治40年)に松沢貞逸が白馬岳山頂近くに橋頭堡を築いて営業を開始したのに始まり、1916年(大正5年)に松沢貞逸が白馬尻小屋を、1918年(大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館(槍沢小屋)を、1921年(大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋(燕山荘)を、百瀬慎太郎が1925年(大正14年)に大沢小屋、1930年(昭和5年)に針ノ木小屋の営業を開始するなど、山中で登山者が休憩・宿泊する山小屋の営業が始まった。 また、1917年(大正6年)の百瀬慎太郎による大町登山案内者組合結成をはじめ、1918年(大正7年)の赤沼千尋の有明登山案内者組合、1919年(大正8年)の松沢貞逸の四ツ谷(白馬)登山案内者組合、1922年(大正11年)の奥原英男による島々口登山案内者組合結成など、山案内人(山岳ガイド)の利用料金および利用者と案内人の間のルールの明示・統一が試みられた 1921年(大正10年)の槇有恒のアイガー東山稜登攀をきっかけとして、大正末期にアルピニズムの時代に入った。「先鋭的な登攀」が実践され、「岩と雪の時代」「バリエーションの時代」と呼ばれた。大学や高校の山岳部が、より困難なルートの制覇を目指して山を登った。 1936年(昭和11年)には日本では初(戦前では唯一)となるヒマラヤ山脈への遠征が、堀田弥一を隊長とする立教大学隊によりナンダ・コート(英語版)(標高6867メートル、当時はイギリス領インド帝国内)を目標に実施され、初登頂に成功した。 1937年(昭和12年)に始まる日中戦争、1938年(昭和13年)に制定される国家総動員法などの時代情勢により、登山ブームは下火になる。 1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終了後、大学・高校の山岳部の活動が再開された。
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