日本での近代登山の幕開けとは? わかりやすく解説

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日本での近代登山の幕開け

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:47 UTC 版)

登山」の記事における「日本での近代登山の幕開け」の解説

明治時代1868年 - 1912年)、1874年ガウランドアトキンソンサトウ三人外国人パーティが、ピッケルナーゲル用いた登山日本初め六甲山行ったガウランド1881年槍ヶ岳前穂高岳登山して「日本アルプス」を命名した人物で、サトウ富士山最初期に登った外国人としても知られる日本アルプスには、上記3名のほか、ウォルター・ウェストンバジル・ホール・チェンバレンフランシスミルン など複数欧米人が登った。15版まで重版されるベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』が1894年明治27年10月出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史第一期とする見方がある。 その見方では、それ以降参謀本部陸地測量部による1913年大正2年)の地図刊行までをその第二期とする。第二期には、冠松次郎木暮理太郎小島烏水近藤茂吉三枝守博、武田久吉田部重治鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った。陸地測量部館潔彦柴崎芳太郎などの測量官を派遣し一等三角測量完成し地図刊行した第二期を、小島烏水日本登山史上の探検時代呼んでいる。 明治期日本アルプス登山では、長野県内野常次郎、上條嘉門次梓川渓谷)、小林喜作(中房渓谷)、遠山品右衛門高瀬川渓谷)、横沢富山県宇治長次郎佐伯源次郎佐伯平蔵山梨県大村晃平中村宗義早川谷)など、地元猟師案内をした。 日本の「近代登山」の始まりをどの時点に置くかは、人によって解釈が様々であるが、1874年明治7年)に六甲山における、ガウランドアトキンソンサトウの3人の外国人パーティによるピッケルナーゲル用いた登山が、日本近代登山最初とされることが多い。1889年明治22年)には、ウェストンによってテント・ザイル等が持ち込まれウェストン助言小島烏水らが1905年明治38年)に日本最初山岳会山岳会」(後の「日本山岳会」)を設立したこの年近代登山の始まりとする説もある。また今西錦司の言うように1918年大正7年)の第一次世界大戦終戦時をもって近代登山幕開けとされることもある。 明治時代北アルプス地元では、学校登山が行われた。1883年明治16年)に窪田畔夫白馬岳に登った渡辺敏は、長野高等女学校校長時代理科体育教育の目的で、1902年明治35年)より毎年戸隠山白馬岳富士山などへの登山実施した富山師範学校教諭保田広太郎は、1885年明治18年)頃より、学生連れて立山などに登った。河野齢蔵1893年明治26年)から動植物採集目的北アルプス山々登り大町小学校校長のとき、学校登山奨励した明治時代測量地理学的な目的での登山が行われた。1882年明治15年8月内務省地質測量ナウマン博士命令による横山又次郎一行南アルプス横断1885年明治18年全国地質測量主任ライマン助手坂本太郎槍ヶ岳-薬師岳縦走1889年明治22年農商務省地質調査所大塚専一による針ノ木岳-立山-後立山縦走などである。 陸地測量部によって、1907年明治40年)までに、日本アルプス主峰のほとんどに、三角点設置された。 探検時代の後、明治末から大正にかけて、日本アルプス登山する人たちが増え始め大正期大衆化した1915年大正4年の上高地 大正池出現や、皇族登山などが、人々を山へ誘った これを受けて1907年明治40年)に松沢貞逸白馬岳山頂近く橋頭堡築いて営業開始したのに始まり1916年大正5年)に松沢貞逸白馬小屋を、1918年大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館槍沢小屋)を、1921年大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋燕山荘)を、百瀬慎太郎1925年大正14年)に大沢小屋1930年昭和5年)に針ノ木小屋営業開始するなど、山中登山者休憩宿泊する山小屋営業始まったまた、1917年大正6年)の百瀬慎太郎による大町登山案内者組合結成をはじめ、1918年大正7年)の赤沼千尋有明登山案内者組合1919年大正8年)の松沢貞逸四ツ谷白馬登山案内者組合1922年大正11年)の奥原英男による島々登山案内者組合結成など、山案内人山岳ガイド)の利用料金および利用者案内人の間のルール明示統一試みられ1921年大正10年)の槇有恒アイガー東山登攀きっかけとして、大正末期アルピニズム時代入った。「先鋭的登攀」が実践され、「岩と雪時代」「バリエーション時代」と呼ばれた大学高校山岳部が、より困難なルート制覇目指して山を登った。 1936年昭和11年)には日本では初(戦前では唯一)となるヒマラヤ山脈への遠征が、堀田弥一隊長とする立教大学隊によりナンダ・コート(英語版)(標高6867メートル当時イギリス領インド帝国内)を目標実施され初登頂成功した1937年昭和12年)に始まる日中戦争1938年昭和13年)に制定される国家総動員法などの時代情勢により、登山ブーム下火になる。 1945年昭和20年)の第二次世界大戦終了後大学高校山岳部活動再開された。

※この「日本での近代登山の幕開け」の解説は、「登山」の解説の一部です。
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