探検時代
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「エバーグレーズの排水と開発」の記事における「探検時代」の解説
アメリカ人とエバーグレーズとの関わりは第二次セミノール戦争(1836年-1842年)に始まっており、これは金も時間もかかり、大変悪名高い紛争だった。アメリカ合衆国は3千から4千万ドルを費やし、1,500から3,000人の人命を失った。アメリカ軍はセミノール族インディアンをエバーグレーズに追い込み、彼らを見つけて戦いに勝利した後に、オクラホマのインディアン準州に移住させる任務が与えられていた。この戦争で約4,000人のセミノール族が殺害され、あるいは移住させられた。アメリカ軍はエバーグレーズで遭遇する条件に適合する装備を有していなかった。ソーグラスと呼ばれる鋭い葉をもつ雑草で衣類は破られ、でこぼこした石灰岩の床でその長靴はすり減り、蚊の大群に襲われた。兵士達の脚、足、腕がソーグラスで傷つき、壊疽に罹り、多くの者の生命あるいは脚を奪った。多くの者は蚊に起因する病気で死んだ。1842年、ある兵卒は泥の中を歩いた後に、極度の疲労の中で死んだ。トマス・ジェサップ将軍は1838年に、戦争を長引かせることを止めさせようとしていたアメリカ合衆国陸軍省に宛てた手紙の中で、陸軍はエバーグレーズの地形に負けていることを認めた。 フロリダがアメリカ合衆国にとっていかなる価値を有するかについての意見は賛否わかれた。湿地ばかりであり、恐ろしい動物が棲息する役立たずの土地であると考える者がいる一方で、国の繁栄のための神からの贈り物だと考えた者もいた。1838年「アーミー・アンド・ネイビー・クロニクル」に掲載されたコメントは、下記のように南フロリダを将来開発する案を支持していた。 気候はこの上なく快適である。土壌については実際の観測が不十分であり、そこまで確信を持って評価することはできなかったが、周辺の植生の外観から少なくともその一部は肥沃であるに違いない。土着民を定住地から追い出すとき(最終的に土着民は必ず出ていかねばならない)はいつでも、米国同胞の企業精神がすぐに耕作に最適な土地をみいだすだろうし、たとえ今は不毛で非生産的な沼地ばかりであっても、いずれは庭園のように花々しい土地へと変貌するだろう。これらの沼地は、夏季には豊富な雨による洪水が発生するため、目下の所この期間には居住不可であるというのが一般的な印象である。しかし、数多くの池沼の流出口が自然の水の流れ道になっており、仮にこの水の流れを何らかの形で妨げるものが氾濫を誘発したり助長したりしているということが証明されれば、きっとアメリカの産業界はこの氾濫の原因となっているものを排除しうるだろう。 南フロリダに軍隊が進行したことで、この国の中でも理解が進んでいなかった地域は地図化の機会をえた。少なくとも1823年の時点で、公式報告書は大きな内陸の湖の存在を疑っており、それは1837年のオキーチョビー湖の戦いで陸軍がセミノール族に遭遇したときまで、そのままだった。1840年、ウィリアム・ハーニー大佐は、自分に対してまた弾薬庫に対して、繰り返し急襲を受けたことに報復するために、エバーグレーズに遠征隊を率いて入り、チェキカという名の酋長を追った。ハーニーに従ったのは16隻のカヌーに乗った90名の兵士だった。「セントオーガスティン・ニューズ」に掲載されたこの旅に関するある兵士の話が、一般大衆に向けてエバーグレーズについて書かれた最初の記事になった。この匿名の記者はチェキカの追跡や、通って行った地形について「これに似たような地形について私はどこにも聞いたことがない。草と緑の木で埋められた広大な海のように見える。悪辣なインディアンのために撤退を目指すとしても、白人がそこから彼らを追い出そうとすることはできないだろう。」と記していた。 軍事的に行き詰まりになったことについて最終的な非難の対象は、軍事的な準備、物資、指揮力あるいはセミノール族の優れた戦術にはなく、フロリダの入って行けない地形にあった。ある陸軍軍医は、「そこは住むためには実に最も恐ろしい地域であり、インディアン、アリゲーター、サソリ、蛙、その他忌まわしい爬虫類全てにとっては完全な天国だった。」と記していた。その土地は脅威あるいは憎しみの異常な反応を引き起こすように見られた。1870年、ある著作家がマングローブの森について、「史上最大の自然の見本市の無駄遣い。この見本市には隔絶した土地に広がる草木のカーニバルがある。ここにはそれが確かに存在するが、他所ではありえない。」と表現した。1885年には狩猟者、博物学者および収集家の1隊がこの地域に入り、初期マイアミ住人の17歳になる孫息子も連れて行った。シャーク川(英語版)に入ると直ぐに、その景色が若者を驚かせ「その場所は野生で寂しく見えた。3時頃に、ヘンリーの神経に取り入ったように見え、我々は彼が泣いているのを見た。彼はその理由を告げようとしなかった。単に怯えているだけだった。」と記されていた。 1897年、ヒュー・ウィロビーという探検家がハーニー川河口からマイアミ川(英語版)まで、1隊と共にカヌーで移動して8日間を過ごした。かれはその観察したことを記し、「ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット」に送った。ウィロビーは、オキーチョビー湖ではその水域が健康的で有益である、多くの泉と「多かれ少なかれ」1万匹のアリゲーターがいると書いていた。この隊はシャーク川の近くで夥しい数の鳥と出逢い、「数百を殺したが、それでも戻り続けていた」と記した。ウィロビーは、この国の他の部分の多くが探検され地図化されたが、フロリダのこの部分が残っていることを指摘し、「我々には長さ130マイル、幅70マイルの土地があり、アフリカの心臓部と同じくらい白人にはあまり知られていない」と記していた。
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