1980-90年代
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トーク・トーク(Talk Talk)や、スリント(Slint)ら1980-90年代に登場したバンドは、後のポストロックに影響を与えたと言われる。トーク・トークの『スピリット・オブ・エデン』(Spirit of Eden、 1988年)スリントの『スパイダーランド』(Spiderland、1991年)の二つは、ポストロックの草分けとして評価されている。 元々ポストロックという言葉はステレオラブ(Stereolab)、ライカ(Laika)、ディスコ・インフェルノ(Disco Inferno)、ムーンシェーク(Moonshake) などの音楽を指していた。だが後には、ジャズやクラウトロックの影響、エレクトロニカに近い雰囲気があるなどの特徴を持った、1994年以降の音楽を広く指して、頻繁に用いられるようになった。 ラブラッドフォード(Labradford)、バウリー・エレクトリック(Bowery Electric)やスターズ・オブ・ザ・リッド(Stars of the Lid)は、アメリカのポストロックが始まる画期となったとされる。トータス(Tortoise)はセカンドLP『ミリオンズ・ナウ・リヴィング・ウィル・ネヴァー・ダイ』(Millions Now Living Will Never Die、1996年)をリリースし、ポストロック界のアイコンとなった。ドゥ・メーク・セイ・シンク(Do Make Say Think)をはじめとする多くのバンドが「トータス・サウンド」に影響された楽曲を制作した。 1990年代後半には、シカゴは多くのポストロック関連のアーティストたちの本拠地となっていた。トータスのジョン・マッケンタイア(John McEntire)やブライズ・グレース(Brise-Glace)、ガスター・デル・ソル(Gastr del Sol)のジム・オルーク(Jim O'Rouke)が多くのグループにとって重要なプロデューサーとなった。特に有名なポストロックの舞台はモントリオールである。ゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラー(Godspeed You! Black Emperor)や、ア・シルバー・マウント・ザイオン(A Silver Mt.Zion、2012年現Thee Silver Mt.Zion)、ドゥ・メーク・セイ・シンク、フライ・パン・アム(Fly Pan Am)などがコンステレーション(Constellation)というレーベルから楽曲を発表した。これらのグループは、ミュージック・コンクレート、室内楽、フリー・ジャズといったジャンルに価値観が根ざしていることに特徴がある。
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1980-90年代
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「マーク・ミラー (漫画家)」の記事における「1980-90年代」の解説
1980年代後半、ティーンエイジャーの頃にアラン・ムーアと出会い、漫画家を志すようになる。 漫画家としての初めての仕事は高校時代の Saviour である。 1990年代に入ると 2000 AD、 Sonic the Comic、 Crisis のタイトルを手掛けた。 イギリスでのミラーの活動によりDCコミックスから注目を得て、1994年に『スワンプシング』でアメリカン・コミックデビューを果たす。その後もJLA、『ザ・フラッシュ』、Aztekを手掛ける。
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1980-90年代
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1980年代に日朝間の大きな懸案事項になったのは、拉致問題ではなく、第十八富士山丸事件だった。日朝間を航行中の貨物船に潜んでいた朝鮮人民軍兵士の閔洪九が亡命申請をしたため、日本は彼の国内滞在を認めて放免した。再び北朝鮮へ入港した貨物船は乗員が拘束されて、船長と機関長はスパイ容疑で教化労働15年の判決を下され、船体は没収された。日本の国民世論は日本人船員の釈放を求めたが、国交がない両国間では交渉が難航して、帰国まで7年をかけた。 この事件の前月には、ラングーン事件が北朝鮮工作員の犯行と発表されており、日本の対北朝鮮警戒感は再び高まった。さらに、大韓航空機爆破事件も日朝関係を冷え込ませた。爆破によって乗客と乗員115人全員が死亡しており、テロ実行犯としてバーレーンで拘束され、服毒自殺を図ったのは日本人を名乗る「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」だった。生き残った蜂谷真由美は韓国に送致され、自らが北朝鮮工作員の金賢姫であることを自白し、日本人化教育を李恩恵という日本人女性から受けたと述べた。 1990年9月28日、「日朝関係に関する三党共同宣言」(自由民主党、日本社会党、朝鮮労働党)発表。 1994年7月8日に金日成国家主席が死去し、世襲により権力が継承される形で実子・長男である金正日の体制へ移行した後、苦難の行軍と呼ばれた北朝鮮の経済情勢・食糧事情の悪さが頻繁に報道され、脱北者と呼ばれる亡命者も多く出るようになり、1998年にはミサイル発射実験が行われ、北朝鮮による日本人拉致問題が表面化するようになり、日本側の北朝鮮に対する不信は増加している一方であった。
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1980-90年代
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「クトゥルフの呼び声 (TRPG)」の記事における「1980-90年代」の解説
『クトゥルフの呼び声』が初めて日本語で販売されたのは、日本でのテーブルトークRPG黎明期である1986年のことであった。当時は日本語版ダンジョンズ&ドラゴンズが初登場して間もない頃で、ファミコンで『ドラゴンクエスト』が出たばかりの年でもある。TRPGどころかRPGそのものの知名度も低い時代であり、その中で「剣と魔法のファンタジーではないRPG」というのはかなり挑戦的なタイトルであった。 クトゥルフ神話自体も日本では知名度があまり高くなかったこともあり、このゲームは発売のかなり当初から「20世紀を舞台にしている」ことの方が注目された。日本市場において中世ファンタジー世界以外を舞台にしたTRPGが主流になるのは1990年代後半以降のことであり、1980年代において20世紀を舞台にしたTRPGというのはそれだけで強いインパクトを持っていたのである。 特に、基幹システムであるベーシック・ロールプレイングは世界観を限定しない汎用システムであるため、ほとんど無改造で現代日本を舞台にすることも可能なことが注目された。『クトゥルフの呼び声』は1920年代の人間を前提とした技能が揃っているが、ほとんどの技能は実は20世紀末の人間に適応してもほとんど違和感がなかったのである。 ユーザーの間では伝奇アクションもの、探偵もの、学園ものなど、およそクトゥルフ神話とは直接関係ないようなテーマのシナリオも、このシステムで遊ばれることが多かったようだ。ベーシック・ロールプレイングを搭載しているため、恐怖要素に関するルールを排除しても十分「現代を舞台にしたゲーム」として遊ぶことができたのである。特に文献調査に関するルールが詳細な点は、ホラーと関係ない現代ものとも相性が良かった。 このようなユーザー側の需要を加味して、日本独自にでは『クトゥルフの呼び声』を現代日本で遊べるサプリメントが作られた。また、『クトゥルフの呼び声』をベースにした学園ドラマRPG『放課後怪奇くらぶ』(ただし、RPGMagazineに掲載された『クトゥルフ・イン・スクール』とはコンセプトが違うものになっている)が発売された。 ただしこのような需要はあくまで日本のテーブルトークRPGに「現代もの」のゲームがほとんどなかった1990年代前半までで一旦は終息した。ホビージャパンでの『クトゥルフの呼び声』の展開が停止した1990年代後半からは日本のテーブルトークRPGの世界に「現代もの」のゲームが一気に増え始めたのである。
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1980-90年代
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クルベラ洞窟の新しい探検時代は、1980年にアレクサンドル・クリムチュク率いるキエフ洞窟探検隊が洞窟探検を始めたときに始まった。彼らは、以前に探査を妨げていた部分を掘り開け、その後、周辺のさまざまな場所で他の調査チームが、1,000 mを超える5つの洞窟を含む多くの深い洞窟を発見した。 1992年から94年にかけてのアブハジア紛争は、その後数年間にわたって不安定な国境問題を引き起こし、このことでクルベラ洞窟の探検はほぼ中断された。1998年後半、政治的なある程度の安定化により、この地域での探査活動の再開が可能となった。 1999年、ユーリ・カシアン (Jurij Kasjan) 率いるウクライナ洞窟探検協会の遠征隊は、深さ220〜250 mの地点の後ろにある2つの枝を発見し、一方は−740mまで、また「ネクイビシェフスカヤ」は−500mまで探査されたことでクルベラ洞窟探検に大きな進展をもたらした。
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1980-90年代
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「女流棋士 (将棋)」の記事における「1980-90年代」の解説
1981年2月 - 女流棋士が初めて公式戦で男性棋士と対局。山下カズ子が新人王戦で高橋道雄と対局して敗れた。 1984年4月 - 女流棋士の育成機関として女流育成会が創設。 1989年11月 - 女流棋士発足15周年パーティが開催されたのを契機に、女流棋士会が発足。 1991年4月 - 女流棋戦でクイーン称号が設けられた(林葉直子による女流王将10連覇〔当時の同一女流タイトル連覇記録〕の達成を機に)。 1993年12月 - 中井広恵が男性棋戦の第7期竜王戦で池田修一に勝利し、公式戦対局39局目にして初めて男性棋士に勝利した女流棋士となった(12月9日)。 1994年6月から7月にかけて林葉直子の失踪騒動が起こる。 1998年4月 - 連盟の棋士総会で女流棋士による奨励会との重籍が禁止とされた(2011年からは再び解禁)。
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1980 - 90年代
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「深夜からゴールデンタイムに移動したテレビ番組の一覧」の記事における「1980 - 90年代」の解説
制作局番組名深夜ゴールデンフジテレビ やっぱり猫が好き 1988年10月 - 1990年3月 1990年10月 - 1991年9月 フジテレビ めちゃ×2イケてるッ! めちゃ×2モテたいッ!1995年10月 - 1996年9月 1996年10月 - 2018年3月 テレビ朝日 いきなり!黄金伝説。 ココリコ黄金伝説1998年10月 - 1999年3月ココリコA級伝説1999年4月 - 2000年3月 2000年4月 - 2016年9月 フジテレビ 笑う犬 笑う犬の生活1998年10月 - 1999年9月 笑う犬の冒険1999年11月 - 2001年9月笑う犬の発見2001年10月 - 2002年9月笑う犬の情熱2002年10月 - 2003年9月笑う犬の太陽2003年10月 - 12月 テレビ朝日 愛のエプロン 愛のエプロン1999年10月 - 2000年3月愛のエプロン22000年4月 - 2002年9月愛のエプロン32002年10月 - 2004年9月 2004年10月 - 2008年3月
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1980 - 90年代
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「赤瀬川原平」の記事における「1980 - 90年代」の解説
1989年には、勅使河原宏と共同脚本を担当した映画『利休』で、日本アカデミー賞脚本賞を受賞。1993年には『仙人の桜、俗人の桜』で、JTB旅行文学大賞を受賞。 この頃、雑誌ビッグコミックスピリッツの企画連載『馬鹿王』(正確には馬の点が5つ)で「馬鹿王様」のイラストを担当「ホイチョイプロダクションズ いたずらの天才の息子」、「いとうせいこうの盗魂」に次ぐ投稿コーナーとなる(芸術原論展図録に記載無し)。 1996年『新解さんの謎』では、三省堂の『新明解国語辞典』を一人の個性的な人物が著した「読みもの」に見立て話題を集めた。企画を提案した夏石鈴子はSM嬢として登場している。 1997年 藤森照信が「赤瀬川原平氏邸に示されたゆとりとぬくもりの空間創出」で第29回日本芸術大賞(財団法人新潮文芸振興会)を受賞した。 その他にも『月刊天文ガイド』で10年以上にわたる連載を行ったり、カメラ(特に中古カメラやステレオカメラ)に関する著作を多数著し、ライカ同盟や脳内リゾート開発事業団を結成するなど、その活動は幅広い。「ステレオ茶会」も開いていた。 また猫好きでもあり、猫についてのエッセイ集や写真集なども刊行している。
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1980、90年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 10:19 UTC 版)
毛沢東の死後、中国の実権を握った鄧小平は一国2制度による統一を提案。しかし蔣経国は中国との一切の取引を拒否した。1988年に蔣経国が死去し、李登輝が中華民国総統に就任すると、中華民国は民主化し、台湾独立を主張する勢力が現れた。中国は新たに登場した台湾独立派に激しく反発する様になる。1996年、中華民国で総統選挙が行われると、中国は李登輝を「隠れ台独派」と主張し、台湾近海にミサイルを乱発した。これを脅威に感じたビル・クリントン米国大統領が台湾近海に空母を派遣。一時中台関係は危機に晒された。
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1980・90年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 01:54 UTC 版)
「チャールストン (ウェストバージニア州)」の記事における「1980・90年代」の解説
1980年代に入ると、市の再開発が始まった。1983年に開店した3階建てのチャールストン・タウン・センター・モールはその1つで、ミシシッピ川以東では最大の市街地型ショッピングセンターである。1990年代には新しい連邦ビルやリバーフロント・パーク、キャピトル・マーケットなどが建設され、ダウンタウンの再成長を促した。また、チャールストンは州でも一級の医療施設を揃える都市としても知られている。
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