1980〜1990年代
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「トロント・メープルリーフス」の記事における「1980〜1990年代」の解説
1982年から1992年までの間、トロントは5度プレーオフ進出を逸している。特に80年代は弱体化、84-85年のシーズンにはチーム史上最悪の成績(勝率.300)となった。但し、この頃もフランチャイズ史上初のシーズン50ゴールを決めたリック・ヴァイヴ(Rick Vaive、81秋-84春まで3シーズン連続で50ゴール以上を記録、81年-86年までキャプテンを務める)や、当時はまだ珍しかったヨーロッパ出身の名ディフェンスのビョルエ・サルミング(Borje Salming、73-89年までトロントでプレー、ホッケーの殿堂入りした初のスウェーデン人選手。スポーツブランド「サルミング」創始者)等、今もファンの記憶に残る名選手はいた。この頃のチームの弱体化は多分に当時のオーナー、ハロルド・バラード(Harold Ballard)による独裁的なチーム経営が原因とされている。ちなみにリック・ヴァイヴの息子のジャスティン・ヴァイヴ(Justin Vaive)は2007年のエントリードラフトでアナハイム・ダックスに指名された。 1993年には光明が見えた。前年度カルガリー・フレームスから移籍のダグ・ギルモア(Doug Gilmour)が、32ゴール127ポイントを上げた。またバッファロー・セイバーズからデイブ・アンドレチャク(Dave Andreychuk)が加入し、31試合で25ゴールを上げた(この年リーグ最多のパワープレーでの得点選手)。さらに ゴーリーのフェリックス・ポトバン(Felix Potvin) は平均2.5失点と堅実さを見せた。チームとしては当時発足来最多の99ポイントを獲得した。1回戦では、レッドウイングスを第7戦のオーバータイムで下し、その後セントルイス・ブルースを破ってノリス地区 (Norris division) で優勝を遂げた。 このときウェールズ・カンファレンスの決勝では、モントリオール・カナディアンズがニューヨーク・レンジャースと対戦しており、カナディアンズは決勝でトロントを粉砕することを夢見ていた。他方、トロント・メープルリーフスは、キャンベル・カンファレンス決勝でロサンゼルス・キングスと対戦した。メープルリーフスは、3勝2敗とシリーズをリードしていたが、第6戦に敗れファンの期待を裏切った(ファンの一部は暴徒化したといわれる。なお、ダグ・ギルモアに対するハイスティッキングの反則の判定が試合の命運を分けたとも伝えられる。)。第7試合ではウェイン・グレツキーのハットトリックにより、トロントは敗退。キングスが決勝に進んだ。 1993年に行われた「すべての対戦がカナダのチーム間で争われるスタンレー・カップ」との夢は、翌1994年のウェスタン・カンファレンス決勝(キャンベル・カンファレンスから改称)で我慢しなければならなかった。トロントはここでも、バンクーバー・カナックスに1勝4敗で敗れた。 その後2年間はプレーオフから遠ざかるものの、1990年代後半になると新たな好調期を迎えた。1999年には、メープルリーフスは本拠地をメープルリーフ・ガーデンから、エアカナダ・アリーナに移した。コロラド・アバランチから1994年に移籍した、マッツ・サンディン(Mats Sundin) は、そのシーズンで自己最多の31ゴール83ポイントを獲得する活躍を見せた。セルゲイ・ベレジン(Sergei Berezin) も37ゴール、カーティス・ジョセフ(Curtis Joseph) は平均2.56 GAA 、さらにエンフォーサーのタイ・ドミ(Tie Domi) はペナルティ時間198分を達成した。プレイオフ第1、第2ラウンドでフィラデルフィア・フライヤーズ、ピッツバーグ・ペンギンズを連破したが、イースタン・カンファレンス決勝ではバッファロー・セイバーズの前に第5試合で大敗した。
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1980〜1990年代
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1980年代、米国のベンチャー企業アドビシステムズ(現・アドビ)は、パーソナルコンピュータで日本語組版を行うDTP環境構築に不可欠な日本語PostScriptフォントの制作を目指していた。アドビは1986年、国内トップメーカーであった写研に提携を持ち掛けたが、絶頂期にあった写研はこれを拒否。最終的にアドビは業界2位のモリサワと提携し、1989年、モリサワの「リュウミンL-KL」および「中ゴシックBBB」をPostScriptフォント化して搭載したプリンター「LaserWriter II NTX-J」がアップルコンピュータジャパンから発売された。これは1990年代以降の急速な日本語DTP普及の端緒となった。 一方、そのころの写研は電電公社民営化(1985年)に伴う電話回線のデータ通信端末機器開放を受け、1987年以降、各出力装置を電話回線で写研のサーバと結び、印字1文字ごとにフォントレンタル料を徴収する従量課金制を導入。この課金徴収システムの整備と、高額な電算写植機の製造販売で、1991年には年間売上が過去最高の350億円に達した。 しかしバブル崩壊の中、関連機器を含めた一式の導入に安くても数千万円から億単位の投資が避けられない電算写植に比べ、圧倒的に低コストで設備を整えることができ、機器操作専門のオペレーターを介することなくデザイナー自身の手による効率的な作業が可能で、フォントを買い切るためランニングコストも低いという数々の利点を持つDTPは、その標準プラットフォームとなったApple製パーソナルコンピュータ「Macintosh」とともに急速に普及し、写研の業績は瞬く間に悪化した。 写研はフォントレンタル料徴収に加え、組版データをPDF出力する新機能にも従量制の高額な使用料を課すなどして売上維持を図ったが、ユーザーの写植離れとMacintoshへの移行の流れはとどまるところを知らず、1998年には売上175億円の写研に対し、PostScriptフォント事業に注力するモリサワが売上187億円となり、モリサワが年商ベースで写研を抜いた。
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