1980〜1990年代とは? わかりやすく解説

1980〜1990年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 17:25 UTC 版)

トロント・メープルリーフス」の記事における「1980〜1990年代」の解説

1982年から1992年までの間、トロント5度プレーオフ進出逸している。特に80年代弱体化84-85年のシーズンにはチーム史最悪成績勝率.300となった。但し、この頃フランチャイズ史上初のシーズン50ゴール決めたリック・ヴァイヴ(Rick Vaive、81秋-84春まで3シーズン連続50ゴール以上を記録81年-86年までキャプテン務める)や、当時はまだ珍しかったヨーロッパ出身の名ディフェンスのビョルエ・サルミング(Borje Salming、73-89年までトロントプレーホッケーの殿堂入りした初のスウェーデン人選手。スポーツブランド「サルミング」創始者)等、今もファン記憶に残る名選手はいた。この頃チーム弱体化多分に当時オーナー、ハロルド・バラード(Harold Ballard)による独裁的なチーム経営原因とされている。ちなみにリック・ヴァイヴの息子のジャスティン・ヴァイヴ(Justin Vaive)は2007年のエントリードラフトでアナハイム・ダックス指名された。 1993年には光明見えた前年度カルガリー・フレームスから移籍のダグ・ギルモア(Doug Gilmour)が、32ゴール127ポイント上げた。またバッファロー・セイバーズからデイブ・アンドレチャク(Dave Andreychuk)が加入し31試合25ゴール上げたこの年リーグ最多パワープレーでの得点選手)。さらに ゴーリーのフェリックス・ポトバン(Felix Potvin) は平均2.5失点堅実さ見せたチームとしては当時発足最多99ポイント獲得した1回戦では、レッドウイングスを第7戦のオーバータイム下しその後セントルイス・ブルース破ってノリス地区 (Norris division) で優勝遂げた。 このときウェールズ・カンファレンスの決勝では、モントリオール・カナディアンズニューヨーク・レンジャース対戦しており、カナディアンズは決勝トロント粉砕することを夢見ていた。他方トロント・メープルリーフスは、キャンベル・カンファレンス決勝ロサンゼルス・キングス対戦した。メープルリーフスは、3勝2敗とシリーズリードしていたが、第6戦に敗れファン期待裏切ったファン一部暴徒化したといわれる。なお、ダグ・ギルモアに対すハイスティッキング反則判定試合命運分けたとも伝えられる。)。第7試合ではウェイン・グレツキーハットトリックにより、トロント敗退キングス決勝進んだ1993年行われたすべての対戦カナダチーム間で争われるスタンレー・カップ」との夢は、翌1994年ウェスタン・カンファレンス決勝(キャンベル・カンファレンスから改称)で我慢しなければならなかった。トロントはここでも、バンクーバー・カナックスに1勝4敗で敗れたその後2年間はプレーオフから遠ざかるものの、1990年代後半になると新たな好調期を迎えた1999年には、メープルリーフスは本拠地をメープルリーフ・ガーデンから、エアカナダ・アリーナに移したコロラド・アバランチから1994年移籍した、マッツ・サンディン(Mats Sundin) は、そのシーズン自己最多31ゴール83ポイント獲得する活躍見せた。セルゲイ・ベレジン(Sergei Berezin) も37ゴール、カーティス・ジョセフ(Curtis Joseph) は平均2.56 GAA 、さらにエンフォーサーのタイ・ドミ(Tie Domi) はペナルティ時間198分を達成したプレイオフ第1、第2ラウンドフィラデルフィア・フライヤーズピッツバーグ・ペンギンズ連破したが、イースタン・カンファレンス決勝ではバッファロー・セイバーズ前に第5試合大敗した

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1980〜1990年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 02:06 UTC 版)

写研」の記事における「1980〜1990年代」の解説

1980年代米国ベンチャー企業アドビシステムズ(現・アドビ)は、パーソナルコンピュータ日本語組版を行うDTP環境構築不可欠な日本語PostScriptフォント制作目指していた。アドビ1986年国内トップメーカーであった写研提携持ち掛けたが、絶頂期にあった写研はこれを拒否最終的にアドビ業界2位モリサワ提携し1989年モリサワの「リュウミンL-KL」および「中ゴシックBBB」をPostScriptフォント化して搭載したプリンターLaserWriter II NTX-J」がアップルコンピュータジャパンから発売された。これは1990年代以降急速な日本語DTP普及端緒となった一方、そのころの写研電電公社民営化1985年)に伴う電話回線データ通信端末機器開放を受け、1987年以降各出装置電話回線写研サーバと結び、印字1文字ごとにフォントレンタル料を徴収する従量課金制導入。この課金徴収システム整備と、高額な電算写植機の製造販売で、1991年には年間売上過去最高の350億円に達した。 しかしバブル崩壊の中、関連機器含めた一式導入安くて数千万円から億単位投資避けられない電算写植比べ圧倒的に低コスト設備整えることができ、機器操作専門オペレーター介することなくデザイナー自身の手による効率的な作業が可能で、フォント買い切るためランニングコストも低いという数々利点を持つDTPは、その標準プラットフォームとなったApple製パーソナルコンピュータMacintoshとともに急速に普及し写研業績瞬く間悪化した写研はフォントレンタル料徴収加え組版データPDF出力する新機能にも従量制高額な使用料課すなどして売上維持図ったが、ユーザー写植離れMacintoshへの移行流れはとどまるところを知らず1998年には売上175億円の写研対しPostScriptフォント事業注力するモリサワ売上187億円となり、モリサワ年商ベース写研抜いた

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