1980 - 1990年代
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1980年(昭和55年)1月 - キャッチコピー「好きだから、あげる。」を使用開始。 5月22日 - 丸井横浜店「馬車道館」が開店。 9月20日 - 丸井町田店開店。 1981年(昭和56年)1月 - キャッチコピー「人生○I○I(マルイ・マルイ)」を使用開始。 2月に「丸井のキャッシング」の名称で消費者金融事業を開始。 2月17日 - 丸井創業50周年。 9月22日 - 丸井横浜店「馬車道ファッション館」「伊勢佐木インテリア館」の2館が同時開店。 1982年(昭和57年)1月 - キャッチコピー「したいこと、いっぱい。赤いカード。もらって、うれしい。赤いカード。」を使用開始。 2月 - 丸井下北沢店が「丸井新宿店下北沢館」に店名変更。 9月28日 - 丸井大宮店開店。 12月 - 丸井新宿店下北沢館(旧・丸井下北沢店)閉店。 1983年(昭和58年)1月 - キャッチコピー「好きで、いっしょで。」を使用開始。 2月25日 - 丸井所沢店、「ファッション館」「インテリア・スポーツ館」の2館体制で全館開店。 6月 - 丸井成増店閉店。 9月2日 - 丸井錦糸町店開店。 1984年(昭和59年)1月 - キャッチコピー「(わ)をかけて 今年もあれこれ。赤いカード。」を使用開始。 3月 - 丸井新宿店、「ヤング館」「テクノ館」「スポーツ館」「インテリア館」「ファッション館」の5館体制になる。 1985年(昭和60年)4月 - 丸井浦和店が「丸井大宮店浦和館」に店名変更。 4月19日 - 丸井渋谷店「本館」「ヤング館」、2館同時開店。 5月24日 - 丸井川口店「本館」「インテリア・電器館」、2館同時開店。 7月14日 - 丸井船橋店閉店。 8月24日 - 丸井上野店開店。 12月 - 丸井大宮店浦和館(旧・丸井浦和店)閉店。 1986年(昭和61年)2月2日 - 丸井浜松店新開店。 2月21日 - 丸井所沢店新開店。 2月22日 - 丸井池袋西口店新開店。 2月23日 - 丸井津田沼店新開店。 3月1日 - 丸井新宿メンズ館新開店。 3月2日 - 丸井町田店新開店。 7月 - 丸井前橋店閉店。 8月29日 - 丸井大宮店新開店。 8月30日 - 丸井藤沢店新開店。 8月31日 - 丸井水戸店新開店。 9月19日 - 丸井錦糸町店新開店。 11月1日 - 丸井戸塚店開店。 1987年(昭和62年)7月25日 - 丸井宇都宮店閉店。 12月 - 丸井千葉店閉店。 1988年(昭和63年)3月11日 - 丸井川崎店開店。 12月 - 丸井熊谷店閉店。 1989年(平成元年)3月1日 - 丸井国分寺店開店。 9月22日 - 丸井大井町店「女とインテリアの館」「男と電器の館」、2館同時開店。 1990年(平成2年) - ヴァージン・グループとの合弁で、ヴァージン・メガストアーズ・ジャパンを設立。 1991年(平成3年)2月17日 - 丸井創業60周年。 1995年(平成7年) - 新CIを制定(現行の○I○Iロゴマーク)。
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1980 - 1990年代
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「マルエツ」の記事における「1980 - 1990年代」の解説
1981年(昭和56年)2月4日 - ダイエーグループの株式会社サンコーを吸収合併する契約に調印。 7月31日 - ダイエーグループの株式会社サンコーを吸収合併し、ダイエーグループ入り。合併時点で、1都3県をカバーする首都圏最大の145店舗を展開。本社を東京都新宿区へ移転。 スーパーマーケット「サンデーマート」を傘下に入れる。 1983年(昭和58年)10月 - 白岡加工センター開設。 1984年(昭和59年)1月 - 大阪証券取引市場第二部に株式上場。 10月 - 東京・大阪両証券取引市場第一部へ指定変え。 1985年(昭和60年)8月 - 浦和加工センター開設。 1986年(昭和61年)10月 - POSシステム実験導入スタート。 1989年(平成元年)7月 - 本社を東京都豊島区東池袋へ移転。 1991年(平成3年)4月10日 - ダイエーによる株式公開買付け(TOB)が成功したと発表。発行済み株数の約26.67%に当たる2879.4万株を取得し、持株比率が約38.1%になる。 埼玉県浦和市に健康と食文化実践室「いーとぴあ」開設。 1992年(平成4年)6月 - 「関東マルエツ」を設立。 1995年(平成7年)1月 - 旧マルエツ店舗と旧サンコー店舗で異なっていた物流システムをダイエーの物流システムに一本化(それまでは旧サンコー店舗のみダイエーと共通の物流システムで、合併前のマルエツ店舗は独自の物流システムだった)。 4月 - ダイエーと共同仕入れを開始。 10月3日 -ダイエーグループの共通カード「OMCカード」でのサインレス決済を全店舗の食品売場に導入。 1996年(平成8年)2月28日 - 「関東マルエツ」を解散。 3月1日 - 40店舗の精肉売場を「ダイエーミート」への委託を止めて直営化。 10月1日 - 「ダイエーロジスティックスシステムズ」に「白岡生鮮加工センター」と「浦和加工センター」(精肉プロセスセンター併設)、「佐倉加工センター」を移管して物流部門を業務委託。 お客様の声を反映する「店長への直行便」を導入。 1997年(平成9年)1月1日 - 151店(全店の約80%)で初の元旦営業を実施。 2月期 - 衣料品販売子会社の「マリッシュ」を清算。 2月期 - 「ピクニック」を清算し、運営していた外食事業をダイエーグループに移管。 10月30日 - 「アイ・ディシュ」が、運営していたピザ宅配店全12店を閉店して同事業から撤退。 1998年(平成10年)1月1日 - 「アイ・ディシュ」が、レストラン3店は付で当社が出資していた関係会社のデュオに営業譲渡して同事業からも撤退。 2月20日 - 「アイ・ディシュ」を解散。 8月1日 - 独自の簡便商品の「楽々食彩」の販売を開始。 9月23日 - 「ダイエーOMCカードご優待デー」を開始。 1999年(平成11年)7月19日 - 187店で障害者の介助犬の受入れを開始。 10月19日 - スーパーで初となる「消費者志向優良企業・通商大臣賞」を受賞。
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1980 - 1990年代
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「北区立稲付中学校」の記事における「1980 - 1990年代」の解説
その後、1983年(昭和58年)には3月31日に技術室・家庭科室・LL教室から成る特別教室が完成し、同年9月14日には渡り廊下、同年10月4日にLL機器、11月10日に防球ネットが設置された。 学校施設の整備が一通り完了すると、その後は既存施設の改修が行われるようになる。まず1984年(昭和59年)3月8日にプールの改修が完了、同年中に校舎の大規模改修工事も完了した。 1990年(平成2年)7月15日には体育館の改修工事に着手、翌1991年(平成3年)11月16日に落成式が行われた。5日後の11月21日にはパソコン室が完成した。1992年(平成4年)には9月5日に校庭の改修工事が始まり、10月6日に裏門と倉庫が完成、12月5日には略式「校庭開き」が行われ、12月28日には夜間照明の工事が終了した。ただし、実際に運用を開始したのは翌1993年(平成5年)4月12日の夜間照明点灯式以降である。 この間、1992年(平成4年)9月12日から学校週5日制が導入されている。1993年(平成5年)9月13日より選択教科が2年生に導入され、翌1994年(平成6年)4月18日には日本語適応指導教室を設けた。 1995年(平成7年)から校舎内部改造工事を開始。1997年(平成9年)11月1日に創立50周年記念式典と祝賀会が催された。1999年(平成11年)に耐震工事が完了した。
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1980 - 1990年代
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「ガリーナ・ズブチェンコ」の記事における「1980 - 1990年代」の解説
1985年に、彼女は久しぶりにカルパティア山脈に戻った。彼女は ロガテニュキヴ(ウクライナ語: Рогатинюків)の農場、ヤロスラアヴア(ウクライナ語: Ярослава)-姫、梨やプラムを耐える、ヤウドハ ・ミトチェル(ウクライナ語: Явдоха Мітчел)などの肖像画を描いた。彼女は1990年代を通して、キリスト教をテーマにして多くの絵画を制作した。それが聖霊の力やポチャイウ(ウクライナ語: Почаїв)の神の母である。彼女はまた、キエフ - ペチェールスカヤ大修道院と中央ウクライナの風景を、ロスは上記の朝ように描いた。クリミア水彩画のシリーズは、1990年に始まり、97から99までの間に終了した。1999年にウクライナのクロアチア大使館の招待で、クロアチアのザグレブで個展が行なわれた。
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1980 - 1990年代
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「横浜駅」の記事における「1980 - 1990年代」の解説
1980年(昭和55年)11月7日には、東口地下街横浜ポルタ・横浜駅東口地下駐車場が開業した。同時に横浜市の事業で、横浜駅東口と西口をつなぐ東西自由通路(現:中央通路) を開設。4代目駅舎 の横浜ターミナルビル(キーテナントはルミネ横浜店)も同時に開業した。 出島地区の開発を行うための組織として、1980年(昭和55年)12月20日に第三セクターの横浜新都市センター株式会社(資本金30億円)が設立され、同社が横浜新都心ビル・横浜駅東口バスターミナルの建設・運営を行うことになった。また翌1981年(昭和56年)7月には横浜市が「横浜市臨海部総合整備計画(みなとみらい21計画)」を発表し、出島地区が「みなとみらい21 横浜駅東口地区(68街区)」として組み込まれることになった。 横浜新興倶楽部の立ち退き交渉が難航し裁判に発展したが和解し、横浜スカイビルが所有していたスカイプール の土地売却交渉も難航したが、横浜スカイビルが横浜新都市ビルの建設・運営に参加することを条件に、横浜スカイビルから土地を借りることで和解した。 1983年(昭和58年)10月8日には横浜新都市ビルの起工式が行われ、翌11月にはみなとみらい21の起工式も開催された。そして1985年(昭和60年)9月26日にビルが竣工し、同年9月30日には横浜新都市ビルと核テナントの横浜そごうが開業した。 財団法人横浜駅東口開発公社は、横浜新都市センター株式会社に事業を譲渡し、1988年(昭和63年)3月31日に解散。同年7月には横浜市からヨコハマポートサイド地区(横浜ベイクォーターなどがある地区)の都市計画(第二種市街地再開発事業)が発表され、開発が始まった。 翌1989年(平成元年)3月からは、みなとみらい21地区で横浜博覧会 (YES'89) が開催され、会期中は横浜新都市ビル2階のペデストリアンデッキ「風の広場」から、コスモワールド子供共和国の北側(現在の39街区と40街区、現「M.M.TOWERS」と「M.M. TOWERS FORESIS」)にあったゴンドラゲートまでの768mを繋ぐゴンドラリフトが設置され、株式会社横浜博スカイウェイにより運行されていた。 1996年9月には、東口に2代目スカイビルが開業し、核テナントとして丸井(マルイシティ横浜)が入居。スカイビル1階には横浜シティ・エア・ターミナル(YCAT)が開業した。また崎陽軒本店ビルも竣工した。
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1980 - 1990年代
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「東武鉄道」の記事における「1980 - 1990年代」の解説
1981年(昭和56年)3月28日:東武動物公園が開園。 4月29日:全ての乗合バスをワンマン運転化。 1983年(昭和58年)6月1日:熊谷線廃止。これにより非電化区間が消滅。 7月21日:荷物電車の運転を廃止。 1985年(昭和60年)10月22日:東上本線所属車両が全車両冷房車となる(有楽町線との直通運転開始後は、非冷房の営団車が乗り入れてくる)。 1986年(昭和61年)10月9日:鬼怒川線が野岩鉄道会津鬼怒川線と相互直通運転開始。 12月27日:スノーパル23:50(現・23:55)の運転を開始。 12月31日:東武鉄道のバス路線廃止により、群馬県館林市が当時日本で唯一「路線バスが存在しない市」となる。 1987年(昭和62年)8月25日:東上本線和光市駅 - 志木駅間複々線化。帝都高速度交通営団有楽町線と相互直通運転開始。 1988年(昭和63年)5月18日:特定都市鉄道整備事業の導入に伴い、鉄道運賃改定を実施。初乗旅客運賃を大人100円とする。北千住駅 - 北越谷駅間に特別加算運賃(10円)を設定。 6月1日:とーぶカードを発行開始。 1989年(平成元年)4月1日:消費税導入に伴う鉄道・バスの運賃改定を実施。 5月20日:伊勢崎線東向島駅高架下に東武博物館が開館。 1990年(平成2年)6月1日:100系が日光・鬼怒川特急に就役。「スペーシア」の愛称が与えられる(列車名は「スペーシアきぬ」「スペーシアけごん」)。 1991年(平成3年)11月20日:鉄道運賃改定を実施。初乗旅客運賃を大人110円とする。 1992年(平成4年)4月1日:東上本線の秩父鉄道秩父本線への定期旅客列車の乗り入れが廃止。 1993年(平成5年)4月24日:東武ワールドスクウェアが開園。 10月16日:本線に新電力システムを使用開始。 1994年(平成6年)6月:根津嘉一郎 (2代目)が東武鉄道会長職に退き、内田隆滋が第3代東武鉄道社長に就任。 1995年(平成7年)8月11日:志木駅において初めて冷暖房付きホーム待合室を設置。 9月1日:鉄道運賃改定を実施。初乗旅客運賃を大人130円とする。時差回数乗車券と土・休日割引回数乗車券発売開始。 10月1日:自動券売機で普通・時差回数乗車券の発売開始。 1996年(平成8年)4月30日:東武本線の冷房率が100%となる。 8月1日:公式サイトを開設。 1997年(平成9年)3月25日:伊勢崎線北千住駅の大規模改良工事、草加駅 - 越谷駅間の連続立体交差化と複々線化が完成、日本の私鉄最長の複々線区間となる。 4月1日:消費税率引き上げに伴い、鉄道運賃改定を実施。 12月28日:特定都市鉄道整備事業の期間満了に伴い、鉄道運賃改定を実施。初乗旅客運賃を大人140円とする。北千住駅 - 北越谷駅間に設定されていた特別加算運賃を廃止。 1998年(平成10年)10月30日:社史『東武鉄道百年史』を発行。 1999年(平成11年)6月:内田隆滋が社長職を辞職。根津嘉澄が第4代東武鉄道社長に就任。
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1980-1990年代
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「ボストン・ブルーインズ」の記事における「1980-1990年代」の解説
ブルーインズのフロントが、チェリーのずけずけいう物言いを忌避したこともあって、次シーズン以降に新コーチとして、引退した Cheevers が招聘され、さらにはレイ・ボーク (Ray Bourque) が加入した。NHL史上でも最高のディフェンス選手と謳われたレイ・ボークは、コロラド・アバランチへトレードされスタンレー・カップ優勝に一役買ったこともあるが、もとはブルーインズで20年以上にも渡ってチームの顔として活躍した選手であった。 1980年代を通じて、ブルーインズは、パーク、ボーク、リック・ミドルトン (Rick Middleton) らを擁して毎年プレイオフに参戦し、特に1982-1983シーズンにはリーグ最高成績を残したが、プレイオフでの成績は芳しくはなかった。 しかし、1980年代後半にチームは再び往時の勢いを取り戻した。ボークに加え、負けん気の強いカム・ニーリー (Cam Neely)、キース・クラウダー (Keith Crowder)、ドン・スウィーニー (Don Sweeney)らの活躍で、ついに1987-1988シーズンにブルーインズは、エドモントン・オイラーズとのカップ決勝戦に進出した。 ブルーインズは4連敗で敗北したが、第4試合で珍事があった。第2ピリオドで試合会場のボストンガーデンの照明が切れたため、この試合はキャンセルされ、エドモントンに試合会場が移されたのである。 1989-1990シーズン、ニーリー、ボーク、クレイグ・ジャニー (Craig Janney)、チーム得点王のボビー・カーペンター (Bobby Carpenter)、ゴーリーを分担したアンディ・ムーグ (Andy Moog)、Rejean Lemelin らを擁して、ブルーインズはカップ決勝に進出したが、またもエドモントン・オイラーズに敗北する。 1990年代に入ると、ブルーインズは全くいいところがなかった。アダム・オーツ、リック・トケット (Rick Tocchet)、ジョゼフ・スタンペル (Jozef Stumpel)ら有力選手を獲得するも、1992年(2年連続カンファランス決勝でピッツバーグ・ペンギンズに敗退)以降プレイオフ第2ラウンドを通過できたことはなかった。 1996-1997シーズンは、30年ぶりにプレイオフ進出を逸した(なお、ブルーインズは北米メジャープロスポーツにおけるプレイオフへの連続出場記録(2005年現在)を保持している。)。 1990年代には、ブルーインズの本拠地が 数々の伝説がつくられたボストン・ガーデンからフリート・センター (Fleet Center) に移転された。チーム史上でブルーインズ最大の好敵手といえるのは、モントリオール・カナディアンズと言えようが、この時代になるとカナディアンズの力の衰えから、長年のライバル関係にも陰りが見られるようになった。
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1980-1990年代
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「キン肉マン消しゴム」の記事における「1980-1990年代」の解説
レギュラーシリーズ(バンダイ、1983 - 1987年) パート1 - 30、全418種。1カプセル100円 3体入り 超人戦士28BOXシリーズ(バンダイ、1984 - 1986年) レギュラーシリーズの箱売り版。ペールオレンジのキン消し28体がセットで販売されていた。 超人全鑑(バンダイ、1984年) レギュラーシリーズのパート1 - 13までの208種のキン消し(ペールオレンジ)をセットにしたもの。 デカケシシリーズ(丸越、1984 - 1986年) チビ消しシリーズ SDシリーズ(バンダイ) ぱあと1 - 7、全84種。 グレートマッスルシリーズ(バンダイ) キン肉星王位争奪編(バンダイ、1991 - 1992年) パート1 - 3、全36種。 キン肉マン 復刻版(バンダイ、1999年頃 - )1カプセル100円2体入り 全22種。レギュラーシリーズの復刻版。 とるとる愛テムmini キン肉マン キン消し(バンプレスト) バンプレストのプライズ景品で全30種。当時物と同じ5色+ラメ&クリアの7色。 KINKESHI(ユタカ) フルカラーキン消し2種+無彩色キン消し(ペールオレンジ)のセット。ブリスターパックで販売。 でかキンケシ(バンダイ)
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1980-1990年代
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この時期、加害者に比べて被害者が保護されないという不満の声が多くあがるようになり、実名報道論議に大きな影響を与えた。また、いわゆる「政治離れ」が進むとともに既存メディアと民衆の乖離が徐々に見られるようになり「第四の権力」視されるマスコミに対して規制論も叫ばれるようになった。1984年には、当時、共同通信社記者だった浅野健一が『犯罪報道の犯罪』を発表し、実名報道、犯人視報道といった日本の犯罪報道のあり方を批判して一石を投じた。 1989年、女子高生コンクリート詰め殺人事件が発生し、少年が行った残虐行為に、世間は驚愕した。このとき、『週刊文春』は逮捕された少年を実名で報道した。このことは大きな論議を呼び、商業主義であるという批判も噴出したが、これに続いて1992年の市川一家4人殺害事件、1994年の大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件、1997年の神戸連続児童殺傷事件、1998年の堺市通り魔事件などで、週刊誌メディアが次々と実名報道した。 一方、報道被害の問題が頻繁に取り上げられるようになり、これと実名報道を結びつける意見が強まっていった。既に1987年には、日弁連が「人権と報道に関する宣言」の中で匿名報道を求めるといった動きがあったが、1990年代に入り松本サリン事件、神戸連続児童殺傷事件、東電OL殺人事件、和歌山毒物カレー事件、文京区幼女殺人事件などで事件のたびに、報道被害の深刻さが指摘され、マスコミの姿勢に疑問がもたれるようになった。報道機関側は放送倫理・番組向上機構の設立や、新聞倫理綱領の改訂などの対策をとったが、自浄作用が疑問視される中で、犯罪被害者の早期保護が叫ばれた。
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1980-1990年代
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「イドロ・ケベック」の記事における「1980-1990年代」の解説
持続的な成長を遂げた20年間の後、1980年代終わりから1990年代にかけてイドロ・ケベックは多数かつ困難な問題に直面した。新たに建設したジェームズ湾の発電所における水流での発電量が緩やかに増加していく中でイドロ・ケベックは電力の「建設会社」から「売電会社」に変貌していった。1980年代初め、根本的なリストラや合理化を実行するためにギー・コロンブ(Guy Coulombe)率いる新経営陣が組まれたが、社員に士気の低下や極度の緊張がもたらされた。 環境問題も顕在化するようになり、ニューイングランドへ電気を送るための新しい水力発電開発と直流高電圧線の敷設はクリー族や米加環境保護団体による反対運動に直面した。ニューイングランドに電気を送るためのジェームズ湾プロジェクトにおいてイドロ・ケベックはケベック-ニューイングランド送電線(英語版)と称した全長1,200-キロメートル (750 mi)、送電量2,000 MWの直流送電線を計画した。建設はデシャンボー=グロディーヌ(Deschambault-Grondines)とロトビニエール間でセントローレンス川と交差する地点を除いて問題なく行われた。 地元住民からの強い反対に直面したイドロ・ケベックは他の手段として川の真下に全長4 km (2.5 mi)のセントローレンス川直流送電線交差点トンネルを1億4400万カナダドルで敷設したことでプロジェクトの完遂が2年半遅れた。結局この送電線が完成したのは1992年10月15日の事だった。
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1980~1990年代
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「ボンカレー」の記事における「1980~1990年代」の解説
1989年(平成元年)、第10回レトルト食品品評会において、ボンカレーゴールドが農林水産大臣賞を受賞。ボンカレーゴールドの内容量が180gから200gとなったボンカレーゴールド200にリニューアル。 1993年(平成5年)、食べる直前に別添の香味スパイスを振りかけて食べるカレーボンデラックスカレーを発売。カレー自体は中辛だが、香味スパイスを振りかける量に応じて、辛さを自由自在に調整できる。テレビCMには、松坂慶子と当時光GENJIのメンバーであった山本淳一を起用していた。
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1980~1990年代
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1980年、長浜忠夫が監督を降板した連続テレビシリーズ『ベルサイユのばら』に、第19話「さよなら妹よ!」からチーフディレクターとして参加。同年9月放送の総集編「ベルサイユのばらと女たち」(最終回の翌週放送)まで同作を担当した。翌月から放送が開始された連続テレビシリーズ『あしたのジョー2』の制作開始を機にマッドハウスを離れ、杉野とスタジオあんなぷるを設立。アニメーションとして世界初のドルビー・ステレオ方式を採用した劇場用映画『SPACE ADVENTURE コブラ』、当時最新鋭のコンピューター・グラフィックス映像を組み込んだ劇場用映画『ゴルゴ13』などを手がける。小学校や公民館での巡回上映用映画『冒険者たち ガンバと7匹のなかま』(1984年公開/連続テレビシリーズ『ガンバの冒険』の再編集版)の作業を終えたのち、アメリカ進出をめざしていた東京ムービー社長・藤岡豊の命を受けて渡米。『マイティ・オーボッツ』『バイオニックシックス』といったSF作品や、幼児向けの動物もの『Sweet Sea』『The Blinkins, the Bear and the Blizzard』など、日米合作アニメの制作に数年間携わった。 帰国後、1988年のOVA『エースをねらえ!2』で4年ぶりに日本国内向け作品を発表する。テレビにおける国内復帰作は、1989年から年1作のペースで放送が開始された『ルパン三世』テレビスペシャル。同シリーズでは、第1作『バイバイ・リバティー・危機一発!』を監督したのを皮切りに、1995年までの7年間で4本の監督、1本の監修を担当した。また、1991年には連続テレビシリーズ『おにいさまへ…』を監督。同作は、当時まだ一般家庭への普及率が低かった衛星放送(NHK-BS2)で放映されたが、庵野秀明や高橋留美子ら、アニメ/漫画業界内にも熱狂的なファンを生み出した。 『おにいさまへ…』を機に手塚プロダクション制作作品に携わるようになり、手塚治虫が制作を進めながら未完に終わっていた日伊合作の連続テレビシリーズ『手塚治虫の旧約聖書物語』を引き継いで完成させる。その後の1997年には杉野との共著「アニメーション制作技法」(1994年、創芸社)に掲載された未完のパイロットフィルム『4701白鯨』を原作とする完全オリジナル連続テレビシリーズ『白鯨伝説』をアニメ化、NHK-BS2にて放映。同作は放送中に制作会社が倒産し、第18話「白鯨伝説」をもって放送が中断されるが、1999年に手塚プロの制作によって再開され、完結した。 一方、1980年代末から1990年代にかけては、出﨑哲が設立したマジックバスが制作に関わった『華星夜曲』『修羅之介斬魔劍・死鎌紋の男』ほか、多数のOVA作品を手がけている。なかでも最大のヒット作となったのが、1993年からリリースが開始された手塚プロ制作の『ブラック・ジャック』である。原作と大きく異なる劇画調のキャラクターデザインを用いたこの作品は、2000年までに、OVA10話に加えて劇場用映画1本(第51回毎日映画コンクールアニメーション映画賞受賞)が制作された。また1998年には、再び山本又一朗のプロデュースにより15年ぶりに『ゴルゴ13』の新作『ゴルゴ13~QUEEN BEE~』を監督し、OVAで発表している。
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