1980-1986年:「神童」の台頭
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「シュテフィ・グラフ」の記事における「1980-1986年:「神童」の台頭」の解説
大きな転機となったのは、1981年 11歳で初めてシニアのドイツインドア選手権に出場した時のこと。強烈なフォアハンドを武器に元世界ランク80位のエヴァ・パーフ(Eva Pfaff)をフルセットに追い込んだ。この試合での活躍を見たドイツの業界誌は、彼女を「神童(wunderkind)」と評した。ナショナルコーチ連盟は類稀な才能の持ち主と、クラウス・ホフサスを専任コーチとして派遣することにした。 1982年 12歳にしてドイツジュニア選手権13歳-18歳の部で優勝する。同年10月には13歳4ヶ月でドイツのシュトゥットガルトで開催されたトーナメント、ポルシェ・テニス・グランプリに出場し、一回戦でUSオープン優勝二回の元世界ランク1位、トレーシー・オースチンに6–4, 6–0のストレートで敗退。その後プロ転向を表明、WTAはグラフをプロ選手として登録した。この早期転向には賛否両論が起こり、専門家は「世紀の才能」が急激な心身の負荷によりバーンアウトする懸念を指摘した。その一週間後、グラフは最年少で世界ランク214位となった。 1983年 初めてパリの全仏オープンに出場、二回戦で敗退したが、その並外れたフォアハンドの強烈さから、専門家から「今まで見た3年以内の選手の中でもっとも有望な選手」と評された。バーデン=ヴュルテンベルク州はグラフがテニスに専念できるよう、特別に中学校退校の許可を与えた。 1984年 全豪で3回戦進出。全英では4回戦まで勝ち上がり、センターコートで第10シードの英国選手、ジョー・デュリー("Jo Durie”)と対戦した。第3セット7-9の激戦となった。この試合を観戦した、1920年代に二度ウィンブルドンで優勝したキャスリーン・ゴッドフリー(“Kathleen McKane Godfree”)は、「二年後彼女を倒すのは難しくなるだろう」と述べるなど、彼女の存在に世間の注目は一層高まることとなった。 この言葉を裏付けるように、その数週間後、グラフは最年少で参加したロサンゼルスオリンピックの公開試合で第8シードで優勝した。(オリンピックにおけるテニス競技は、1928年のアムステルダム五輪以後、プロ選手の登場により除外されていた。しかし1988年のソウル五輪でプロテニス選手の出場が認められ、64年ぶりにオリンピック競技としてのテニスが復活した。オリンピックはアマチュアの祭典である、という基本理念を覆す決定がなされたため、当時は大きな波紋を呼んだ出来事だった。グラフは早くからオリンピック参加に積極的な姿勢を示し、1984年のロサンゼルス五輪「公開競技」で優勝した後、ソウル五輪の女子シングルス決勝でガブリエラ・サバティーニを 6-3, 6-3 で破って金メダルを獲得した。しかし、1992年のバルセロナ五輪決勝では当時16歳のジェニファー・カプリアティに 6-3, 3-6, 4-6 で敗れて連続金メダルを逃し、1996年アトランタ五輪では左膝故障のため出場を断念している。) 秋にはフィルダースタッドで行われたWTAトーナメントの準々決勝に進み、トップ10にランクインしていたクラウディア・コーデ・キルシュを破って決勝に進出した。これにより、年末のランクは22位に上がった。 1985年 グラフはマイアミのクレーコートトーナメントの準決勝で、当時世界ランク2位のクリス・エバートと初めて対戦した。エバートとは、この年、ヒルトンヘッド、ベルリン、全仏で対戦したが、すべて敗退。しかしながら、全仏・全英で4回戦まで進出。とりわけ全英では当時世界ランク4位で芝の得意なパム・シュライバーに惜敗、近い将来トップ選手となるポテンシャルの高さを十分に示した。フラッシングメドウで行われたUSオープンでは4大トーナメントで初めて準決勝に進出し、初めてマルチナ・ナブラチロワと対戦した。当時29歳だったナブラチロワに2-6, 3-6で敗退したが、世間の期待は高まり、報道陣から「いつかトップに君臨すると思うか」との質問が何回あった。この年は、優勝こそなかったが、6位までランクを上げた。 グラフのスケジュールは早熟選手に多い「燃え尽き症候群」を恐れた父によってきっちり管理されていた。そのため、1985年には同世代のライバル、アルゼンチンのガブリエラ・サバチーニがUSオープンまでに21のトーナメントに出場していたが、グラフはその半分にも満たない10トーナメントであった。加えて父は私生活まで管理し、ツアーに伴う社交パーティー等はシュテフィが練習と試合に集中できるようしばしば断った。シュテフィは毎日4時間程度、ピーターとコーチのパベル・スロジル(Pavel Složil)と練習するのが常で、空港からコートに直行することもよくあった。もともと恥ずかしがりやで内向的な性格のうえ、このような環境から、キャリア初期はほとんど友達ができなかったが、その反面、プレーは確実に向上した。 1986年 4月13日、グラフはヒルトンヘッド/サウスキャロライナで開催されたファミリー・サークル・カップ決勝でエバートに初めて勝利し、WTAトーナメントで初優勝を遂げた。(この勝利以来3年半に渡りシュテフィーは、エバートと7回対戦し、負けることはなかった。)その後更にサンキストWTAチャンピオンシップ(アメリア島)、USオープンクレー(インディアナポリス/米)、ドイツオープン(ベルリン)と続けて3回優勝し、ドイツオープンでは決勝でナブラチロワを6–2, 6–3で下して勝利した。しかし、病気のためにウィンブルドンを欠場、さらにその数週間後足の指が骨折するなどして競技を休まざるを得なくなった。その後、モーウォー(ニュージャージー/米)での小規模なトーナメントで復帰し優勝。その後、調子が万全とは思われないなかでUSオープンに出場。準決勝でナブラチロワと対戦、試合は二日間に及んだが、3回のマッチポイントを握るも結果、6–1, 6–7, 7–6で惜敗した。その後グラフは 東レ・パン・パシフィック・オープン(東京)、ヨーロッパインドア(チューリッヒ/スイス)、プリティポーリークラシック(ブライトン/英)で三回連続インドアのタイトルを取得したが、シーズン最終のバージニアスリムスチャンピオンシップでは再度ナブラチロワと当たり6-7, 3-6, 2-6で敗退した。
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