1980-1986年:「神童」の台頭とは? わかりやすく解説

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1980-1986年:「神童」の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 01:57 UTC 版)

シュテフィ・グラフ」の記事における「1980-1986年:「神童」の台頭」の解説

大きな転機となったのは、1981年 11歳初めシニアのドイツインドア選手権出場した時のこと。強烈なフォアハンド武器に元世界ランク80位のエヴァ・パーフ(Eva Pfaff)をフルセット追い込んだ。この試合での活躍見たドイツ業界誌は、彼女を「神童(wunderkind)」と評した。ナショナルコーチ連盟類稀な才能の持ち主と、クラウス・ホフサスを専任コーチとして派遣することにした。 1982年 12歳にしてドイツジュニア選手権13歳-18歳の部で優勝する同年10月には13歳4ヶ月ドイツシュトゥットガルト開催されトーナメントポルシェ・テニス・グランプリ出場し一回戦USオープン優勝二回の元世界ランク1位、トレーシー・オースチンに6–4, 6–0のストレート敗退その後プロ転向表明WTAグラフプロ選手として登録した。この早期転向には賛否両論起こり専門家は「世紀才能」が急激な心身負荷によりバーンアウトする懸念指摘した。その一週間後、グラフ最年少世界ランク214となった1983年 初めパリ全仏オープン出場二回戦敗退したが、その並外れたフォアハンド強烈さから、専門家から「今まで見た3年以内選手中でもっとも有望な選手」と評された。バーデン=ヴュルテンベルク州グラフテニス専念できるよう、特別に中学校退校許可与えた1984年 全豪3回戦進出全英では4回戦まで勝ち上がりセンターコートで第10シード英国選手ジョー・デュリー("Jo Durie”)と対戦した第3セット7-9激戦となった。この試合観戦した1920年代二度ウィンブルドン優勝したキャスリーン・ゴッドフリー(“Kathleen McKane Godfree”)は、「二年後彼女を倒すのは難しくなるだろう」と述べるなど、彼女の存在世間注目は一層高まることとなった。 この言葉裏付けるように、その数週間後、グラフ最年少参加したロサンゼルスオリンピック公開試合で第8シード優勝した。(オリンピックにおけるテニス競技は、1928年アムステルダム五輪以後プロ選手登場により除外されていた。しかし1988年ソウル五輪プロテニス選手出場認められ64年ぶりにオリンピック競技としてのテニス復活したオリンピックアマチュア祭典である、という基本理念覆す決定なされたため、当時大きな波紋呼んだ出来事だった。グラフ早くからオリンピック参加積極的な姿勢示し1984年ロサンゼルス五輪公開競技」で優勝した後、ソウル五輪女子シングルス決勝ガブリエラ・サバティーニ6-3, 6-3破って金メダル獲得した。しかし、1992年バルセロナ五輪決勝では当時16歳ジェニファー・カプリアティ6-3, 3-6, 4-6敗れて連続金メダル逃し1996年アトランタ五輪では左膝故障のため出場断念している。) 秋にはフィルダースタッドで行われたWTAトーナメント準々決勝進みトップ10ランクインしていたクラウディア・コーデ・キルシュ破って決勝進出した。これにより、年末ランク22位に上がった1985年 グラフマイアミのクレーコートトーナメントの準決勝で、当時世界ランク2位クリス・エバート初め対戦した。エバートとは、この年、ヒルトンヘッド、ベルリン全仏対戦したが、すべて敗退しかしながら全仏全英4回戦まで進出とりわけ全英では当時世界ランク4位で得意なパム・シュライバー惜敗近い将来トップ選手となるポテンシャルの高さを十分に示した。フラッシングメドウで行われたUSオープンでは4大トーナメント初め準決勝進出し初めマルチナ・ナブラチロワ対戦した当時29歳だったナブラチロワ2-6, 3-6敗退したが、世間期待高まり報道陣から「いつかトップ君臨すると思うか」との質問何回あった。この年は、優勝こそなかったが、6位までランク上げたグラフスケジュール早熟選手に多い「燃え尽き症候群」を恐れた父によってきっちり管理されていた。そのため、1985年には同世代ライバルアルゼンチンガブリエラ・サバチーニUSオープンまでに21トーナメント出場していたが、グラフはその半分にも満たない10トーナメントであった加えて父は私生活まで管理しツアーに伴う社交パーティー等はシュテフィ練習試合集中できるようしばしば断ったシュテフィ毎日4時程度ピーターコーチパベル・スロジルPavel Složil)と練習するのが常で、空港からコート直行することもよくあった。もともと恥ずかしがりやで内向的な性格のうえ、このような環境から、キャリア初期はほとんど友達ができなかったが、その反面プレー確実に向上した1986年 4月13日グラフはヒルトンヘッド/サウスキャロライナで開催されファミリー・サークル・カップ決勝でエバートに初め勝利しWTAトーナメント初優勝遂げた。(この勝利以来3年半に渡りシュテフィーは、エバートと7回対戦し負けことはなかった。)その後更にサンキストWTAチャンピオンシップアメリア島)、USオープンクレー(インディアナポリス/米)、ドイツオープンベルリン)と続けて3回優勝しドイツオープンでは決勝ナブラチロワを6–2, 6–3で下して勝利した。しかし、病気のためにウィンブルドン欠場、さらにその数週間後足の指が骨折するなどして競技を休まざるを得なくなったその後、モーウォー(ニュージャージー/米)での小規模なトーナメント復帰し優勝その後調子万全とは思われないなかでUSオープン出場準決勝ナブラチロワ対戦試合二日間及んだが、3回マッチポイントを握るも結果、6–1, 6–7, 7–6で惜敗した。その後グラフは 東レ・パン・パシフィック・オープン(東京)、ヨーロッパインドア(チューリッヒ/スイス)、プリティポーリークラシック(ブライトン/英)で三回連続インドアタイトル取得したが、シーズン最終のバージニアスリムスチャンピオンシップでは再度ナブラチロワと当たり6-7, 3-6, 2-6敗退した

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