女流棋士の育成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 18:00 UTC 版)
1924年の日本棋院設立後は現役を引退。後進女流棋士の育成に務め、鈴木秀子、伊藤友恵、荻原佐知子、小杉勝子、神林春子、大山寿子、鈴木津奈、杉内寿子ら多くを門下として育てた。1937年六段。 1918年に本因坊秀哉が野沢竹朝を破門した際、1923年の和解の席は文子が立会人となった。呉清源が1928年の来日後に医者に連れていくなどの世話をし、1940年の富士見高原診療所への入院中もしばしば見舞いに行った。1942年の呉清源の結婚では、喜多夫妻が媒酌人を務めた。 1945年から46年にかけて他の棋士らと岩手県水沢市に疎開し、地元のアマチュアに指導碁を行った際に喜多文子が署名した碁盤が残されており、2002年の第21期女流本因坊戦第3局が水沢市で行われた時に使用された。 1950年死去。日本棋院から七段を追贈され、1973年に名誉八段を贈られた。また2006年の日本棋院囲碁殿堂の第3回候補者にノミネート、2013年に殿堂入りが決定した。
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