テロ実行
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1997年5月までハンブルクの都市計画事務所に勤務。勤務態度は優秀で性格も温厚だったというが、ハンブルク工科大学に留学中、過激なイスラム主義ネットワークの一員になったとされる。1999年秋にマルワン・アルシェヒ、ジアド・ジャラヒらと共に同大学のあるハンブルクに居を移し、学内にイスラムのサークルを作った。部屋を借りたアパートでは大量のパソコンが使用され、また、コーランを詠唱する声が隣人から「うるさくて眠れない」といわれていた。 2001年2月、ビンラディンの指示により、アタとアルシェヒはドイツを出国して渡米。6月にはジャラヒも後を追う。フロリダ州の高級別荘地ハムレットの従業員アパートの一室を借り、そこをアジトとして旅客機乗っ取りと自爆テロの計画を進めた。アタが“細胞”の「前線指揮官」を務め、集った若者全員がアルカイダ工作員であった。 アタはパイロットスクール=ホフマン飛行機学校に通い航空機の操縦方法を学んだ。非常に熱心で習熟が速く、何回か失敗するのが普通の試験を1回でパスしたという。 自家用操縦免許を取得したフロリダのアタ以下6名は、計画実行日の9月を目前にひかえた2001年夏には、ラスベガスに居場所を移し最終謀議を重ねた。インターネットカフェのE-mailで連絡をとっている姿も確認されている。モロッコ系フランス人ザカリアス・ムサウイはパイロットスクールでの不自然な言動が原因でフランス当局認定のイスラム過激派であることをFBIに気づかれ、アタらとの合流に失敗している(9月15日に逮捕。後に終身刑)。これにより折から懸念されてきたイスラムテロが航空機を使ったものである可能性がようやく浮上した。ところが、ムサウィ宅捜索のための令状請求書類に「至急」のスタンプが押されていなかったために、FBIが裁判所から令状を受け取ったのは、時既に遅し、9月11日のテロ発生直後のことであった。 現地時間9月11日午前5時53分44秒、アタはメイン州ポートランド国際ジェットポートからボストン行きの便に搭乗、次いで7時過ぎにはアメリカン航空ボストン発ロサンゼルス行き11便8-D席に着座する。定刻通りに機体は離陸、間もなくアタらは機を乗っ取り、世界貿易センタービル北棟に突入して計画を達成し、死亡した。 詳細は「アメリカン航空11便テロ事件」を参照
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