探検開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/16 19:23 UTC 版)
「エルンスト・シュトローマー」の記事における「探検開始」の解説
シュトローマーとマルクグラーフはカイロからギーザへ汽車で移動し、そこでラクダ使いのオラーンと合流した。こうしてギザの台地の横断を開始したのは11月19日、午前9時40分のことである。シュトローマーの目的は、北アフリカにおける初期の哺乳類の化石を探すことであった。当時、人類の起源はアフリカではなくヨーロッパ大陸にあると広く信じられていたが、シュトローマーはそうは考えなかったのである。 とは言え、シュトローマーはこの探検で初期の哺乳類を発見することはできなかった。その代わりに全く違う大発見―エジプトで唯一知られる恐竜を発見したのである。 シュトローマーがワディ・エル・ナトルーンに滞在していた1910年の日記には、彼が何マイルも歩き、丘を登り、谷の各所で採取した岩をハンマーで破砕するなど、一日中活動していた様子が記されている。彼はほぼ不休で調査を続けたが、ワディ・エル・ナトルーンで費やした数週間にこれといった収穫は得られなかった。彼が見つけたものは延々と出土するサメの歯、カメの甲羅化石の断片、それに時折出てくるワニの顎化石程度であり、哺乳類の化石は全く無かった。12月、彼は失望のうちにカイロへ戻った。 シュトローマーがカイロへ戻るも、マルクグラーフはワディ・エル・ナトルーンに残って調査を続けるよう指示されていた。一週間ほどの後、マルクグラーフは小さなサルの頭蓋骨を発見し、これをシュトローマーに見せると彼はたいそう喜んだ。このサルはマルクグラーフに献名して Libypithecus markgrafi と命名された。 探検の第二段階は12月、ナイル川をさらに上流に遡っておこなわれた。しかし、ワディ・エル・ナトルーン以上の幸運には見舞われなかった。さらに困った事に、マルクグラーフは持病を再発し、最も有望であった探検計画の第三段階、バハリヤのオアシス(Bahariya Oasis)探検に同行できなくなってしまった。シュトローマー自身はアラビア語をほとんど知らず、またエジプト西部砂漠の辺境の土地勘も全くなかったため、突然右腕を失った彼の探検は岐路に立たされた。結局シュトローマーはドラゴマン(dragoman)と呼ばれるガイド兼通訳の人間を探し出し、事態はようやく落ち着いた。それでも西部砂漠の探索の許可を得るのは容易ではなかった。 1911年1月3日、シュトローマーとクルーは汽車に乗って西部砂漠へと向かった。鉄道はバハリヤ・オアシスの南端で終点になっていた。彼らはそこで簡素な帆布のテントを張って夜を明かし、鶏肉と米で簡単に食事を済ませた。翌日の正午にはシュトローマー一行は砂漠の奥地へと踏み込み、バハリヤ探検が開始された。 彼のキャラバンは、砂漠では貴重な牧草地を探しながら非常にゆっくりと進行した。これは隊員の一人がラクダの飼葉の購入を惜しんだためで、シュトローマーは憤然とするしかなかった。砂漠の日差しは白い岩に反射して非常に眩しく、シュトローマーはしばしば特注のサングラスをかけねばならなかった。また真冬の空気はとても冷たく、彼は体を温めるために、ラクダに乗らずによくその横を歩いたという。 一週間以上の行軍を経て、1月11日にシュトローマーらは目的地に到着した。彼はこの谷の岩を始新世に属するものと思っていたため、この場所なら哺乳類の化石を発見できると考えていた。当時の他の科学者たちと同様、始新世はほんの数百万年前であり、白亜紀の終わりはさらにその二百万年ほど前であろうとシュトローマーは見積もっていたのである。彼は地質時代の目測を六千万年ほど誤り、恐竜時代の真っ只中(の累層)に踏み込んだ。
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