探検旅行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:03 UTC 版)
「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」の記事における「探検旅行」の解説
アレキサンダー・フォン・フンボルト、ダーウィン、ウィリアム・ヘンリー・エドワーズなど初期の探検博物学者の手記に触発され、ウォレスはベイツを誘い海外で博物学の調査を行うことを決心した。二人は1848年にブラジルへ出発した。彼らの目的はアマゾンの熱帯雨林で昆虫や他の動物の標本を集め、イギリスに戻ってからコレクターに売ることであった。また彼らは種の変化の証拠を集めることを望んだ。 ブラジルではベレン近郊で数ヶ月間ともに収集活動したあと、別れて内陸に旅立ち標本採集を続けた。二人は何度か調査結果を知らせあうために会った。1849年には短い間、若い探検家・植物学者リチャード・スプルースとウォレスの弟ハーバートともに活動した。ハーバートはすぐに採集探検家の道を諦めた(二年後にブラジルで病死した)が、スプルースはベイツのように10年以上も南アメリカで探検を続けることになる。 ウォレスはネグロ川を四年間調査し、標本を集め、出会った民族や言語、地理、動植物相をノートに記した。1852年7月にヘレン号でイギリスへの帰途に就いた。出発から28日後に船の貨物から出火し、ウォレスのコレクションは全て失われた。日記とほんのわずかなスケッチだけが手元に残った。ウォレスと船員は10日間ボートで漂流した後、他の帆船に救助された。イギリスへ戻った後、標本の保険金で18ヶ月を送った。この期間中、探検のメモを失っていたにもかかわらず6つの論文と2つの本を執筆したが、本の売れ行きは悪かった。またダーウィンを含む多くの博物学者と人脈を築いた。 1854年から1862年まで、現在のマレーシアとインドネシアを探検し標本を集めた。スンダ列島のバリ島とロンボク島の狭い海峡の間に、大きく異なる二つの動物相が隣接していることを発見した彼の観察は、生物地理学の分布境界線の提案に繋がった。この線はのちにトマス・ハクスリーによってウォレス線と名付けられた。マレー諸島では12万5千以上の標本を集め、うち8万が甲虫であった。そのうち1000以上が新種として記載された。この時期の発見で現在でも有名なのは樹上棲の滑空するカエルRhacophorus nigropalmatusであり、「和名ワラストビガエル:ウォレスのトビガエル」として知られている。 この探検の間に進化と自然選択に関する洞察を行った。彼の研究と探検の記録は1869年に『マレー諸島』として発表された。これは19世紀の科学調査記録としてもっとも人気のある一冊となり、出版社は1920年代まで増刷を繰り返した。ダーウィンやライエルのような科学者からだけではなく小説家ジョセフ・コンラッドのような科学者以外からも称賛された。コンラッドは「お気に入りの枕元のおとも」と呼び、小説(例えば『ロード・ジム』)の情報源として用いた。
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