探検家の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 15:03 UTC 版)
「オレゴン州の歴史」、「ブリティッシュコロンビア州の歴史(英語版)」、「ワシントン州の歴史」、「オレゴン・カントリー」、および「北アメリカ西海岸の歴史(英語版)」も参照 数名の歴史家は、ヨーロッパ人が到達するはるか昔、紀元前219年には、日本人あるいは中国人が北西海岸に漂着していたと信じている。彼らがコロンビア川河口周辺に上陸したかどうかは定かではない。難破船から脱出したスペイン人が1679年に海岸に辿り着き、クラットソップ族(英語版)と取引した証拠が存在する。彼らが本当にコロンビア川を目にした最初のヨーロッパ人であったとしても、本国へ何も報告はおこなっていない。 18世紀には、大西洋(もしくは北アメリカ内陸部)と太平洋を結ぶ北西航路の発見に強い関心が集まった。数多くの船舶がこの領域に押しかけ、特にスペイン籍とイギリス籍の船舶が、ハドソン湾やミズーリ川へ繋がる長大河川を求めて北西海岸を探索した。コロンビア川の発見を最初に報告したヨーロッパ人は、ブルーノ・デ・ヘセタ(英語版)で、1775年に河口を目にしている。流れが強く、人員不足もあって、部下の進言に従い彼は川の探検に乗り出さなかった。彼は河口部を湾とみなし、エンセナダ・デ・アスンシオン (Ensenada de Asunción) と名付けている。その後に制作されたスペインの地図には、彼の報告に基づき、川をリオ・デ・サン・ロケ (Rio de San Roque 、あるいはその入口をエントラーダ・デ・ヘゼタ (Entrada de Hezeta) と記載したものがある。ヘセタの報告を受けて、イギリス人沿岸毛皮交易(英語版)業者のジョン・ミアーズ(英語版)船長が、1788年に川を捜索したものの最終的に存在しないと結論を下した。川が見つからなかったことに失望して、かれはとある岬をディスアポイントメント岬(英語版)と名付けたが、実際のところ、そこが河口の北端であった。 次に起きた出来事は、それから数十年に渡るイギリスとアメリカのこの地域に対する探検、領有権の主張において協調と論争の基礎を形成した。イギリス海軍のジョージ・バンクーバー司令官は、1792年4月にコロンビア川の河口に船を進め、水色が変わるのを観測した。しかし彼はミアーズの報告を疑わず、そのまま北へ航海を続けた。その月末に、バンクーバーはアメリカ人のロバート・グレイ(英語版)船長と、ファンデフカ海峡で遭遇した。グレイは、コロンビア川の入口を見つけたが、9日間粘ったものの、進入するには至らなかったと報告した。 1792年5月12日、グレイは南へ戻りコロンビア砂州(英語版)を横切り、初めて川の中に進入し探検(英語版)を行った。グレイの毛皮公益事業は、オレゴンのボストン(現オレゴン州シェッド(英語版))の商人から融資を受けており、コロンビア・レディビバ (Columbia Rediviva)という名の私有船を与えられており、かれは5月18日に船の名に因んで川に命名した。グレイはコロンビア川河口周辺で9日間交易に従事し、それから上流に向かって21キロメートル航行した。到達した最遠地点はグレーズ川(英語版)の合流点であるグレーズ湾であった。グレイのコロンビア川発見は、後にオレゴン・カントリーの領有を主張するロシアやグレートブリテン王国、スペイン等の国々に対する合衆国の強みとなった。 1792年10月、バンクーバーは彼の副官であるウィリアム・ロバート・ブロートン大尉に川の遡上を命じた。ブロートンはコロンビア川峡谷の西端である、サンディー川(英語版)の合流点まで辿り着いた。河口から160キロメートル遡っており、その際にフッド山を目にしてその名を付けている。ブロートンは公式に川とその流域、河口周辺の沿岸域をグレートブリテン王国領と宣言した。逆に、グレイは合衆国を代表して公式な領有宣言を行っていない。 コロンビア川はミズーリ川の水源とほぼ同じ緯度にあるので、グレイとバンクーバーは念願の北西航路を発見したのではないかと推測していた。1798年発行のイギリスの地図には、コロンビア川とミズーリ川の間を結ぶ点線が描かれている。しかし、アメリカ人探検家のメリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークがアメリカ西部の広大な地図のない大地を遠征し(1803年〜1805年)、その結果を地図に描いて2つの川の間に通廊は存在しないことを示した。ロッキー山脈を踏破した後、ルイスとクラークは丸木舟を作り、スネーク川を漕ぎ降り、現在のワシントン州トリシティズ近くでコロンビア川に辿り着いた。彼らは川を数マイル遡り、ベイトマン島(英語版)まで辿り着いた後、川を下っていって河口で遠征を終えクラットソップ砦(英語版)を建設した。この砦は短命で、3ヶ月しか持たなかった。 北西会社に雇われていたカナダ人の探検家、デイヴィッド・トンプソン(英語版)は、1807年から1808年にかけての冬を、コロンビア川源泉近くの現ブリティッシュコロンビア州インヴァーミア(英語版)にあったクートネー・ハウス(英語版)で過ごした。続く数年にわたって、彼は川と北部流域の大半を探索し続けた。1811年に、彼はコロンビア川を太平洋へと下っていって、ジョン・ジェイコブ・アスターの太平洋毛皮会社(英語版)が河口に設立したアストリアへたどり着いた。北からの帰路において、トンプソンはそれまで訪れていなかった区間を探索しており、結果としてコロンビア川の本流を完全に踏破した最初のヨーロッパ系アメリカ人となった。 1825年、ハドソン湾会社 (HBC) がコロンビア川の堤へ、コロンビア・ディストリクト(英語版)における本部としてフォート・バンクーバー(英語版)(現在のワシントン州バンクーバー)を設立し、ロッキー山脈より西側全域を対象として運営を始めた。医師であったジョン・マクローリンが、コロンビア・ディストリクトにおける主任仲買人(英語版)として派遣された。HBC はコロンビア・ディストリクトの運営をコロンビア川経由で太平洋へ向かうことに方針変更し、コロンビア川はこの地域の流通の主要ルートとなった。1840年代初頭には、アメリカ人がオレゴン・トレイルを経由してオレゴン・カントリーへの入植を開始し、HBCは、領域内のアメリカ人の居住地に対して妨害を仕掛けていったものの、その数は増え続けていった。入植者の多くはコロンビア川の下流を目指し、フォート・バンクーバーへと旅していった。オレゴン・トレイルにおいて、ザ・ダルズからフォート・バンクーバーにかけての最後の区間は、最もあてにならない道のりで、1846年には迂回路となるバーロー道路(英語版)が建設されることになった。 合衆国とイギリスの間で1818年条約(英語版)が締結され、両国は10年間オレゴン・カントリーにおいて同等の権利を享受することを合意した。1828年までに、いわゆる「共同領有」状態を無期限に継続すべく条約は更新され、その時点でコロンビア川下流が境界となる公算が高まった。何年もの間、ハドソン湾会社はコロンビア川の管理を成功裏に維持し続けており、足場を確保しようとするアメリカの試みを阻害し続けてきた。しかし1830年代になると、アメリカ人の宗教団体がコロンビア川下流域において教会を数カ所で設立した。そして1840年代には大量のアメリカ人の入植者がイギリスの管理を崩し始めた。ハドソン湾会社は供給が激減していた毛皮交易から、サケや材木などの品目の輸出に切り替えて優位を維持すべく努力を重ねた。植民地化も試みられたが、アメリカ人居留地とうまく迎合できず失敗に終わった。アメリカ人は通常、コロンビア川の南に入植し、多くはウィラメット渓谷に居を構えた。ハドソン湾会社は川の北側に居住地を設立しようと試みたが、ほとんどのイギリス人入植者も、南のウィラメット渓谷に移っていった。イギリス人入植者は渓谷からアメリカ人の影響力を薄めようと考えていたのだが、アメリカ人の入植者の圧倒的な人数が思惑通りには進ませなかった。こういった成り行きは、「共同領有」の問題と境界線紛争を再燃させた。一部のイギリス人は、とくにハドソン湾会社はコロンビア川を境界とすべく奮闘したが、1846年に締結されたオレゴン条約により、境界は北緯49度線と平行に引かれることになった。コロンビア川自体は合衆国のオレゴン準州とワシントン準州の境界となる。オレゴンは1859年に正式な州に昇格し、ワシントンは1889年に昇格した。 20世紀に代わるころには、コロンビア川における航行の困難さが、カスケード山脈東側のインランド・エンパイア(英語版)地域における経済発展の障害と見なされてきていた。 浚渫とその後行われたダムの建設により、川の姿を恒久的に変え自然の流れを途切れさせただけでなく、可航性の向上に加え電力や灌漑などの利益を地域にもたらした。
※この「探検家の活動」の解説は、「コロンビア川」の解説の一部です。
「探検家の活動」を含む「コロンビア川」の記事については、「コロンビア川」の概要を参照ください。
- 探検家の活動のページへのリンク