探検史とは? わかりやすく解説

探検史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 03:26 UTC 版)

トリコラ山」の記事における「探検史」の解説

近くまで航行可能ノード川(現在のローレンツ川(英語版))があるため、山頂のある他のオランダ領ニューギニアの山と比べてトリコラ山アクセスやすかった20世紀初頭、オランダ赤道近く万年雪調査するための科学探検隊何度トリコラ山派遣した第1次第2次探検隊リーダー外交官アマチュア生物学者のヘンドリカス・ローレンツ(英語版)で、それに兵士荷物運搬人夫、船の扱い慣れたダヤク族同行した1907年7月第1次探検では、ノード川(1910年ローレンツ川に改称)の航行不能となる箇所南緯4度40東経13842分 / 南緯4.667度 東経138.700度 / -4.667; 138.700)の近くに「アルクマール・キャンプ」を設置したが、山に入ることはできなかった。ローレンツ、ヤン・ウィレム・ファン・ナウハウス(オランダ語版)ら9人からなる第2次ニューギニア探検隊もアルクマール・キャンプを使用し、そこを1909年10月9日出発した1909年11月8日標高4460mの地点ニューギニア島万年雪初め到達した。彼らは尾根から、尾根の北にある大きな湖を観測しローレンツ探検隊員の名前からハベマ湖と命名した南緯4度08東経13840分 / 南緯4.133度 東経138.667度 / -4.133; 138.667)。この探検でもウィルヘルミナ山山頂まで到達することはできなかった。帰途で4人の隊員命を落とし12月中旬キャンプ戻った頂上への初登頂は、1912年9月から1913年4月まで行われた第3次ニューギニア探検の期間中1913年2月21日達成された。このときは、第2回探検と同じルート使用した第3回探検隊隊長オランダ領東インド軍(英語版)の士官、アルフォンス・フランセン・ヘルデルセー(オランダ語版)で、目的標高2300メートル上の地域土壌動植物調査することだった。その他の探検隊員は、動物学者Gerard Martinus Versteeg、植物学者August Adriaan Pulle、地質学者Paul François Hubrecht、インドネシア総合診療医J.B. Sitanalaだった。ヘルデルセーは民族誌学としての役割持っていた。その他、兵士荷物運搬人夫、ダヤク族など、探検隊総勢241人からなった。様々なタスク効率的に実行するために、探検隊はいくつかのグループ分かれていた。ヘルデルセー、Hubrecht、Versteegが登頂隊を結成し1913年2月21日ウィルヘルミナ山山頂到達した1920年から1922年中央ニューギニア探検オランダ語版)では、1914年軍事遠征部分的に探検されたルート通って北側海岸から山頂到達することを目標としていた。1920年2月7日、A.J.A. van Overeem指揮の下による最初探査は、マンベラモ川(英語版)の河口からスタートし、イーデンブルク川(現タリタウ川(英語版))を遡った。10月に、彼らはドアマン山を越えてスワート渓谷 (現トリー渓谷の上部に達した。ここで彼らはラニ族(英語版)と初め接触し、そこに6週間滞在した時間食糧不足のために、ウィルヘルミナ山登頂することなく帰還した。 翌1921年6月からフォローアップ探検が行われ、前年探検測量技師だったJ.H.G. Kremer探検隊長となった。彼らは前年ルート辿りバリエム渓谷英語版上部とハベマ湖を経て1921年12月4日頂上到達した登頂者のうちポール・ハブレヒトは1913年にも登頂しており、氷帽8年前からかなり後退していたことに気づいた。

※この「探検史」の解説は、「トリコラ山」の解説の一部です。
「探検史」を含む「トリコラ山」の記事については、「トリコラ山」の概要を参照ください。


探検史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 09:22 UTC 版)

ブラマプトラ川」の記事における「探検史」の解説

「:en:Yarlung Tsangpo Grand Canyon」も参照 チベット地域流れツアンポー川チベット横断したナムチャバルワ(7,782m)とギャラペリ(英語版)(7,294m)の間の峡谷部で大きく南に流れ旋回させる(ツアンポー川の大屈曲部)。この川がヒマラヤ山中姿を消した後、どこに流れるかは長らくであった当時アッサム測量責任者であったヘンリー・ジョン・ハーマン(英: Henry John Harman)はネム・シン(Nem Singh)とキントゥプ(英語版)に峡谷探検させた。1884年キントゥプはペマコチュン(Pemako Chung)まで到達後、ツアンポー川アッサム流れこむことを証明するために印をつけた500本の丸太を川に流したが、ハーマン病気のためインド去っており、流され丸太発見し証明することはできなかった。 キントゥプの報告書には45mの大滝があるとの記述があったが、キントゥプは文字書けず、口話での報告書類にまとめる際に誤って解釈されたものだった。ツアンポー渓谷標高アッサム標高との比較からすればこの間に1000m以上も標高落としており滝があっても不思議はない思われた。ここからツアンポー峡谷大滝伝説生まれた1913年 フレデリック・M・ベイリー英語版)の探検によりツアンポー川アッサム流れ込みブラマプトラ川となることを証明した1924年 フランク・キングドン=ウォード英語版)(英: Frank Kingdon-Ward)、コーダー卿(英語版)が峡谷無人地帯突破しふたつの滝を発見峡谷残り空白部は5マイルであると報告した空白地帯の上流部に虹の滝下流部にプラマプトラの滝を報告1993年 イアン・ベイカー(英: Ian Baker)がキングドン=ウォード以来となる無人地帯踏破成功した同年ブリーシヤーズが空白地帯上流部虹の滝からすぐ先に新たに幻の滝発見2002年 角幡唯介未踏査部を探検新たに未知の滝と巨大洞穴発見した

※この「探検史」の解説は、「ブラマプトラ川」の解説の一部です。
「探検史」を含む「ブラマプトラ川」の記事については、「ブラマプトラ川」の概要を参照ください。


探検史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 15:03 UTC 版)

ダーウィン山脈」の記事における「探検史」の解説

イギリス帆船ビーグル号1831年から1836年にかけての世界一周航海英語版)の途中1832年末にティエラ・デル・フエゴ到達したその後1834年艦長ロバート・フィッツロイは、この航海同行していたチャールズ・ダーウィン25歳誕生日祝い山脈最高峰ダーウィン山と名付けた余談であるが、この付近にダーウィンの名にちなん地名として他にダーウィン湾(英語版)も存在する1962年エリック・シプトンは他3人の仲間と共にダーウィン山脈縦走し、上述標高2,580 mの頂上を含むダーウィン山の三つ頂上およびCerro Yagánに初登頂した。また2011年10月フランス軍のGroupe Militaire de Haute Montagneというチーム29日間をかけて山脈縦走した。

※この「探検史」の解説は、「ダーウィン山脈」の解説の一部です。
「探検史」を含む「ダーウィン山脈」の記事については、「ダーウィン山脈」の概要を参照ください。


探検史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 09:19 UTC 版)

南極海」の記事における「探検史」の解説

人類史初め南極海周航したのは、ジェームズ・クックである。彼は1772年から1775年にかけての第2回航海英国軍レゾリューション号を指揮して南極海周航し1773年1月17日にはヨーロッパ人としてはじめ南極圏突入し南緯7110分まで達したが、南極大陸発見することはできなかった。しかし彼の航海によって、南方未確定領域大幅に狭められ伝説南方大陸テラ・アウストラリスメガラニカ)は存在しないことが明らかとなったクック自身は、氷山形状などから彼が探検した海域南方には大陸があることを予想していたが、それは人類居住できるようなものではないことも予測していた。また、クックはこの海域クジラアザラシ多く生息していることを報告し、そのため1790年代以降にはこの海域にはアザラシ漁師たちが出没するようになった初期南極海探検において、こうしたアザラシ漁師たちは重要な役割果たした1819年にはイギリスウィリアム・スミスサウス・シェトランド諸島発見した。これは、南緯60度以南においては初の陸地発見であった1820年には人類南極海越え南極大陸発見された。この発見者ロシア海軍ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンイギリス海軍のエドワード・ブランスフィールド、アメリカ人アザラシ漁師のナサニエル・パーマーの3人のうちいずれかとされるいずれか、というのは、この三人はほぼ同時に南極大陸発見しており、発見日に数日程度のずれしか存在しないため、正確な発見者確定できないためである。また、この際ベリングスハウゼン南極海クックよりも高い緯度周航している。1821年にはパーマーイギリスのジョージ・パウエルがサウス・オークニー諸島発見した1830年代から1840年代初頭にかけては、ジョン・ビスコー、ジョン・バレニー、チャールズ・ウィルクスジュール・デュモン・デュルヴィルジェイムズ・クラーク・ロスといった探検家たちが南極海航行し多く発見成し遂げている。ウィルクス航海によって南極大陸海岸線70%程度はほぼ確定しロスエレバス山ロス棚氷などを発見している。 1874年にはチャレンジャー号探検航海中のチャレンジャー号ケルゲレン諸島から南極海へと突入し調査行ったここまで調査南極海調査というより南極全般調査であったが、南極海専門対象とした調査は、1925年イギリスによって開始されディスカバリー号調査嚆矢とする。この調査第二次世界大戦勃発まで10回にわたって行われ南極海データ収集するのに大きな役割果たした1940年代以降複数の国家が南極海および南極領有宣言するようになり、1952年には南極海最良の港であるデセプション島において、領有主張するイギリス軍アルゼンチン軍の間で発砲騒ぎ起きている。一方第二次世界大戦後チリアルゼンチンなど数か国が南極観測基地設置していたが、1957年から1958年にかけての国際地球観測年によって参加各国南極大陸海岸まんべんなく南極観測基地設置し協力体制構築された。これを踏まえ1959年には南極条約採択され南緯60度以南における領土主張はすべて凍結された。

※この「探検史」の解説は、「南極海」の解説の一部です。
「探検史」を含む「南極海」の記事については、「南極海」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「探検史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「探検史」の関連用語

探検史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



探検史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのトリコラ山 (改訂履歴)、ブラマプトラ川 (改訂履歴)、ダーウィン山脈 (改訂履歴)、南極海 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS