探検史
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近くまで航行可能なノード川(現在のローレンツ川(英語版))があるため、山頂に雪のある他のオランダ領ニューギニアの山と比べてトリコラ山はアクセスしやすかった。20世紀初頭、オランダは赤道近くの万年雪を調査するための科学探検隊を何度かトリコラ山に派遣した。第1次と第2次の探検隊のリーダーは外交官でアマチュア生物学者のヘンドリカス・ローレンツ(英語版)で、それに兵士や荷物運搬人夫、船の扱いに慣れたダヤク族が同行した。 1907年7月の第1次探検では、ノード川(1910年にローレンツ川に改称)の航行不能となる箇所(南緯4度40分 東経138度42分 / 南緯4.667度 東経138.700度 / -4.667; 138.700)の近くに「アルクマール・キャンプ」を設置したが、山に入ることはできなかった。ローレンツ、ヤン・ウィレム・ファン・ナウハウス(オランダ語版)ら9人からなる第2次南ニューギニア探検隊もアルクマール・キャンプを使用し、そこを1909年10月9日に出発した。1909年11月8日に標高4460mの地点でニューギニア島の万年雪に初めて到達した。彼らは尾根から、尾根の北にある大きな湖を観測し、ローレンツが探検隊員の名前からハベマ湖と命名した(南緯4度08分 東経138度40分 / 南緯4.133度 東経138.667度 / -4.133; 138.667)。この探検でもウィルヘルミナ山山頂まで到達することはできなかった。帰途で4人の隊員が命を落とし、12月中旬にキャンプに戻った。 頂上への初登頂は、1912年9月から1913年4月まで行われた第3次南ニューギニア探検の期間中の1913年2月21日に達成された。このときは、第2回探検と同じルートを使用した。第3回探検隊の隊長はオランダ領東インド軍(英語版)の士官、アルフォンス・フランセン・ヘルデルセー(オランダ語版)で、目的は標高2300メートル以上の地域の土壌・動植物を調査することだった。その他の探検隊員は、動物学者Gerard Martinus Versteeg、植物学者August Adriaan Pulle、地質学者Paul François Hubrecht、インドネシアの総合診療医J.B. Sitanalaだった。ヘルデルセーは民族誌学者としての役割も持っていた。その他、兵士、荷物運搬人夫、ダヤク族など、探検隊は総勢241人からなった。様々なタスクを効率的に実行するために、探検隊はいくつかのグループに分かれていた。ヘルデルセー、Hubrecht、Versteegが登頂隊を結成し、1913年2月21日にウィルヘルミナ山山頂に到達した。 1920年から1922年の中央ニューギニア探検(オランダ語版)では、1914年の軍事遠征で部分的に探検されたルートを通って、北側の海岸から山頂に到達することを目標としていた。1920年2月7日、A.J.A. van Overeemの指揮の下による最初の探査は、マンベラモ川(英語版)の河口からスタートし、イーデンブルク川(現タリタウ川(英語版))を遡った。10月に、彼らはドアマン山を越えて、スワート渓谷 (現トリー渓谷)の上部に達した。ここで彼らはラニ族(英語版)と初めて接触し、そこに6週間滞在した。時間と食糧不足のために、ウィルヘルミナ山に登頂することなく帰還した。 翌1921年6月からフォローアップ探検が行われ、前年の探検で測量技師だったJ.H.G. Kremerが探検隊長となった。彼らは前年のルートを辿り、バリエム渓谷(英語版)上部とハベマ湖を経て1921年12月4日に頂上に到達した。登頂者のうちポール・ハブレヒトは1913年にも登頂しており、氷帽が8年前からかなり後退していたことに気づいた。
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探検史
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「:en:Yarlung Tsangpo Grand Canyon」も参照 チベット地域を流れるツアンポー川はチベットを横断した後ナムチャバルワ(7,782m)とギャラペリ(英語版)(7,294m)の間の峡谷部で大きく南に流れを旋回させる(ツアンポー川の大屈曲部)。この川がヒマラヤの山中に姿を消した後、どこに流れるかは長らく謎であった。当時のアッサムの測量責任者であったヘンリー・ジョン・ハーマン(英: Henry John Harman)はネム・シン(Nem Singh)とキントゥプ(英語版)に峡谷を探検させた。1884年キントゥプはペマコチュン(Pemako Chung)まで到達後、ツアンポー川がアッサムに流れこむことを証明するために印をつけた500本の丸太を川に流したが、ハーマンは病気のためインドを去っており、流された丸太を発見し証明することはできなかった。 キントゥプの報告書には45mの大滝があるとの記述があったが、キントゥプは文字が書けず、口話での報告を書類にまとめる際に誤って解釈されたものだった。ツアンポー渓谷の標高とアッサムの標高との比較からすればこの間に1000m以上も標高を落としており滝があっても不思議はないと思われた。ここからツアンポー峡谷の大滝の伝説が生まれた。 1913年 フレデリック・M・ベイリー(英語版)の探検によりツアンポー川がアッサムに流れ込みブラマプトラ川となることを証明した。 1924年 フランク・キングドン=ウォード(英語版)(英: Frank Kingdon-Ward)、コーダー卿(英語版)が峡谷の無人地帯を突破しふたつの滝を発見。峡谷の残りの空白部は5マイルであると報告した。空白地帯の上流部に虹の滝、下流部にプラマプトラの滝を報告。 1993年 イアン・ベイカー(英: Ian Baker)がキングドン=ウォード以来となる無人地帯の踏破に成功した。同年ブリーシヤーズが空白地帯上流部の虹の滝からすぐ先に新たに幻の滝を発見。 2002年 角幡唯介が未踏査部を探検。新たに未知の滝と巨大洞穴を発見した。
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探検史
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イギリスの帆船ビーグル号は1831年から1836年にかけての世界一周航海(英語版)の途中、1832年末にティエラ・デル・フエゴに到達した。その後1834年、艦長のロバート・フィッツロイは、この航海に同行していたチャールズ・ダーウィンの25歳の誕生日を祝い、山脈の最高峰をダーウィン山と名付けた。余談であるが、この付近にはダーウィンの名にちなんだ地名として他にダーウィン湾(英語版)も存在する。 1962年、エリック・シプトンは他3人の仲間と共にダーウィン山脈を縦走し、上述の標高2,580 mの頂上を含むダーウィン山の三つの頂上およびCerro Yagánに初登頂した。また2011年10月、フランス軍のGroupe Militaire de Haute Montagneというチームが29日間をかけて山脈を縦走した。
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探検史
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人類史上初めて南極海を周航したのは、ジェームズ・クックである。彼は1772年から1775年にかけての第2回航海で英国軍艦レゾリューション号を指揮して南極海を周航し、1773年1月17日にはヨーロッパ人としてはじめて南極圏に突入し、南緯71度10分まで達したが、南極大陸を発見することはできなかった。しかし彼の航海によって、南方の未確定領域は大幅に狭められ、伝説の南方大陸(テラ・アウストラリス、メガラニカ)は存在しないことが明らかとなった。クック自身は、氷山の形状などから彼が探検した海域の南方には大陸があることを予想していたが、それは人類が居住できるようなものではないことも予測していた。また、クックはこの海域にクジラやアザラシが多く生息していることを報告し、そのため1790年代以降にはこの海域にはアザラシ漁師たちが出没するようになった。初期の南極海探検において、こうしたアザラシ漁師たちは重要な役割を果たした。1819年にはイギリスのウィリアム・スミスがサウス・シェトランド諸島を発見した。これは、南緯60度以南においては初の陸地の発見であった。 1820年には人類は南極海を越え、南極大陸が発見された。この発見者はロシア海軍のファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼン、イギリス海軍のエドワード・ブランスフィールド、アメリカ人アザラシ漁師のナサニエル・パーマーの3人のうちいずれかとされる。いずれか、というのは、この三人はほぼ同時に南極大陸を発見しており、発見日に数日程度のずれしか存在しないため、正確な発見者の確定ができないためである。また、この際ベリングスハウゼンは南極海をクックよりも高い緯度で周航している。1821年にはパーマーとイギリスのジョージ・パウエルがサウス・オークニー諸島を発見した。1830年代から1840年代初頭にかけては、ジョン・ビスコー、ジョン・バレニー、チャールズ・ウィルクス、ジュール・デュモン・デュルヴィル、ジェイムズ・クラーク・ロスといった探検家たちが南極海を航行し、多くの発見を成し遂げている。ウィルクスの航海によって南極大陸の海岸線の70%程度はほぼ確定し、ロスはエレバス山やロス棚氷などを発見している。 1874年にはチャレンジャー号探検航海中のチャレンジャー号がケルゲレン諸島から南極海へと突入し、調査を行った。 ここまでの調査は南極海の調査というより南極全般の調査であったが、南極海を専門の対象とした調査は、1925年にイギリスによって開始されたディスカバリー号調査を嚆矢とする。この調査は第二次世界大戦の勃発まで10回にわたって行われ、南極海のデータを収集するのに大きな役割を果たした。 1940年代以降、複数の国家が南極海および南極の領有を宣言するようになり、1952年には南極海最良の港であるデセプション島において、領有を主張するイギリス軍とアルゼンチン軍の間で発砲騒ぎも起きている。一方、第二次世界大戦後、チリやアルゼンチンなど数か国が南極に観測基地を設置していたが、1957年から1958年にかけての国際地球観測年によって参加各国が南極大陸の海岸にまんべんなく南極観測基地を設置し、協力体制が構築された。これを踏まえ、1959年には南極条約が採択され、南緯60度以南における領土主張はすべて凍結された。
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