地理学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/03 22:39 UTC 版)
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地理学史(ちりがくし)は、地理学の一部門で、地理学の発達の歴史、学説史の検討、地理学者の研究などを行う分野である。近接している地理学思想などもこの分野に含めることも多い。地理学の本質の部分を論じるので、地理学の基礎分野ともみなされている。内容によって以下のように細分化できる。またこの分野の内容は捉え方によって色々な見方ができる分野でもある。
地理学そのものの歴史については、本項ではなく地理学の歴史を参照のこと。
地理学史
狭義の地理学史は、純粋に地理的世界観の拡大の過程や、探検史、地図発展の歴史などを取り上げるが、広義には地理学の理論や方法論などの史的研究といった地理学説史の研究も含めることもある。
地理学説史
地理学の理論の史的研究。主な地理学上の観点をめぐる論争や更新され続けてきた新しい地理学の検討など、地理学のやり方・見方を探る分野。
地理学制度史
各国の地理学会の歴史や、学校教育における地理教育の歴史などを地理学を取り巻く社会制度に関する史的研究。
地理学思想
地理学に関する思想研究。地理学思想自体の定義はまちまちだが、各地理学研究者の地理学観を指したり、逆に一般の人たちの地理に対する見方を指すこともある。地理思想とも言われる。
関連項目
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地理学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 03:37 UTC 版)
ブナオ峠に至る道路は、加賀平野部と越中五箇山を結ぶ間道で、真宗教団の布教・連絡路、物資の交易ルートを兼ねた。特に江戸期には五箇山で生産された塩硝が、ブナオ峠を越えて金沢の土清水の塩硝製造所へ運ばれた(富山県道54号福光上平線)。 かつての山域の道は現在と若干異なっていた。五万分一地形図『西赤尾』陸地測量部(明治42年(1909年)測図)によると、山頂部や尾根には道がなく、石川県側の倉谷集落から倉谷川沿いを登り、月ヶ原山・多子津山をかすめ、大門山の北側斜面を通りブナオ峠に至る道があった。ただこの道は登山道というよりも、世俗的な交易路と捉えるべきだろう。この道は、五万分一地形図『下梨』陸地測量部(昭和5年(1930年)修整測図)では消えている。 一方で、『皇国地誌』・『石川郡誌』によると、かつて石川県側から「登路」があったとしている。この「登路」とは、先の明治42年測図地形図のものと一致するか、それとも今日で言うバリエーションルートに近いものかは定かでない。
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