芦別の開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/17 14:30 UTC 版)
北海道がまだ探検時代の安政4年(1857年)に、松浦武四郎は空知川の流域で大規模な石炭の露頭を発見していた。 開拓初期、石狩川の最大の支流である空知川流域は、滝川村に属していた。やがて滝川村から奈江村(現在の砂川市)が分村し、空知川の右岸を滝川村、左岸を奈江村とした。この頃、石炭の開発が本格化し、奈江村から歌志内、歌志内から赤平へ開拓者の入植が進み、炭坑や鉄道の敷設が行われた。 明治26年(1893年)、歌志内で魚商をしていた佐藤伝治郎は、空知川の支流のパンケホロナイ川で魚を調達していたが、事業が思わしくないため自らパンケホロナイ川の右岸(当時は下班渓=現在の芦別市常磐町)に住み着く。これが芦別の開基である。 翌明治27年(1894年)の雪解けには、石川の沢口期一が率いる68戸が佐藤伝治郎の拓いた下班渓地区・西隣の次郎島地区(現在の芦別市福住町)に入植した。この時に下班渓神社を創建している。
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