人間史とは? わかりやすく解説

人間史

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恵那山」の記事における「人間史」の解説

1893年明治26年5月11日 - 英国人ウォルター・ウェストン前宮ルートから、外国人としての初登頂をした。 1951年昭和26年)11月22日 - 長野県中央アルプス県立自然公園(後の中央アルプス国定公園)に指定された。 1959年昭和34年) - 黒井林道からの黒井ルート登山道整備された。 1960年昭和35年4月21日 - 日本百名山著者である深田久弥黒井ルートか登頂し神坂ルート下り翌日萬岳荘に宿泊した1975年昭和50年8月23日 - 中央自動車道恵那山トンネル開通した1996年平成8年) - ヘブンスそのはらスキー場開業した2001年平成13年10月7日 - 長野県側の阿智村からの広河原ルート登山道開設された。 2001年 - 中津川市川上恵那山ウェストン公園整備されウェストン銅像設置された。 2006年平成18年) - 木製状の山頂展望台建てられた。 2007年平成19年6月2日 - 緑化作業中の東邦航空ヘリコプター山頂付近墜落する事故発生11月15日午前10時40分頃 - 東邦航空小型飛行機セスナ404山頂付近墜落する事故発生登山道にいた登山者倒木が当たり負傷したとされている。

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人間史

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鹿野山」の記事における「人間史」の解説

日本武尊東征の際訪れ先住民豪族阿久留王(あくるおう、「悪路王」ともいわれる)と戦い征伐したという伝説がある。598年聖徳太子により神野寺開山され、その後修験道の山として、また上総国安房国を結ぶ街道の町として栄えた鹿野山平地から視認しやすく、旧・東京天文台から日本経緯度原点方向基準である原方位を定めるために、1879年には日本最初一等三角点山頂置かれた。その後2001年測量法改正まで原方位とされていた。1956年には国土地理院測地観測所設置され地磁気人工衛星の観測などが行われている。なお、地磁気観測房総西線直流化により支障生じたため、観測機器改良などを実施した1960年代マザー牧場ゴルフ場オープンし観光の山となった南側斜面地盤弱く1970年梅雨時豪雨などによりたびたび崩壊している。

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人間史

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弓ヶ浜半島」の記事における「人間史」の解説

『出雲国風土記』には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」とあり、『伯耆国風土記』の逸文は「夜見島」の北西部に「余戸里」(現在の境港市外江町付近)が存在した記されている[要出典]ことから、古くは島であった考えられている。その後日野川運搬してきた土砂堆積した結果半島形成された。ただ、1398年応永5年)に成立した大山寺縁起絵巻』には弓ヶ浜半島描かれているため、すでに平安時代には半島形成されていたと言われている。 半島北部位置する境と外江の周辺は、古くから水上交易重要な寄港地1つであった戦国時代には戦略的に重要な水軍拠点とされ、尼子氏毛利氏などによって、ここを争奪する戦い相次いで行われた1471年文明3年8月には境松合戦1563年永禄6年11月には弓浜合戦 (浜目合戦)などが起こったその後毛利氏の支配下に置かれ吉川氏管掌にあった江戸時代に入ると隣接する美保関と共に北前船などの寄港地として栄え漁業も盛んであった半島として陸続きになったことで農業が行われるようになったものの、農業用水の確保難しかったため、旱魃時の被害大きかった。これを克服するために、1700年米村所平の提案に基づき鳥取藩によって車尾村大字観音寺戸上から弓ヶ浜半島への水路開削開始された。3段階に亘って行われた用水路拡張工事により、1759年には先端境港まで延長され提案者である米村1文字をとって「米川(よねがわ)」と命名された。水田のみならず木綿産地として成長し木綿は藩を代表する特産物となって伯州綿」(伯耆木綿)と呼ばれ弓浜絣発達した。このほか麦や甘藷などが栽培された。明治20年代になると、外国産の安い木綿輸入され弓ヶ浜半島での綿作り衰退し始めた。綿に代わって栽培されたのは桑の木で、養蚕主体となった。しかし、養蚕第2次世界大戦影響で、弓ヶ浜半島では終焉迎えた半島付け根皆生温泉は、海底湧出していた温泉だったが、日野川運搬する土砂の堆積により、20世紀初頭には比較利用し易い場所に泉源求められるようになったため、20世紀入ってから開湯された。しかし、その後激し海岸侵食発生し温泉施設一部侵食によって破壊された。また、20世紀最後の年発生した鳥取県西部地震では弓ヶ浜半島沿岸部埋め立て地液状化現象多発した。これに対して弓ヶ浜半島内陸部液状化現象発生した箇所限られたものの、例外として、かつて砂を採取していた場所を埋め戻し住宅地として造成した場所だけ、この鳥取県西部地震の際に液状化被害局地的に受けた

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人間史

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槍ヶ岳」の記事における「人間史」の解説

1828年文政11年7月20日 (旧暦) - 播隆上人中田又重郎(現在の安曇野市三郷小倉)などの協力得て初登頂開山したとされる1878年明治11年7月28日 - ウィリアム・ゴーランド外国人としての初登頂1892年明治25年8月 - ウォルター・ウェストン登頂1902年明治35年) - 小島烏水登頂し以後多く日本人登頂するようになった1913年大正2年) - 夏にウォルター・ウェストン夫妻登頂ウェストン夫人女性として初登頂田部重治らが島々から徳本峠越えて上高地経て立山温泉までの飛騨山脈縦走の際に登頂した1915年大正4年) - 内藤千代子が、日本人女性として初登頂1916年大正5年8月 - 東久邇宮稔彦王らが登頂し周辺登山道整備されるようになった1920年大正9年)秋 - 小林喜作らにより、中房温泉から槍ヶ岳に向かう当時最短ルートであった喜作新道開設された。 1922年大正11年6月 - 小林喜作殺生小屋現在の殺生ヒュッテ)を開業日本百名山著者である深田久弥登頂。 夏 - 土橋三・中山彦パーティー小槍南面フェイスルート初登攀。 冬 - 慶應義塾大学パーティー槍ヶ岳冬期初登頂1924年大正13年)冬 - 麻生武治スキー登頂1926年大正15年8月 - 穂苅三寿雄により槍ヶ岳山荘建造された。 1927年昭和2年伊藤愿が小槍単独初登攀1934年昭和9年12月4日 - 山域は、中部山岳国立公園指定された。その特別保護地区指定されている。 1936年昭和11年1月 - 加藤文太郎北鎌尾根遭難1949年昭和24年1月 - 松濤明北鎌尾根パートナー有元克己と共に遭難死。後に『風雪のビバーク』が出版される1959年昭和34年) - 12月20日 - 専修大学山岳部員が北鎌尾根登山中に雪崩遭遇し、9名が死亡した1968年昭和43年5月 - 新田次郎が『槍ヶ岳開山』 の播隆上人主人公とした伝記小説文藝春秋 から出版した2005年平成17年)秋 - 左俣谷から奥丸山登る登山道新設された。これにより、新穂高温泉から左俣谷沿いの道を遡り奥丸山から稜線づたいに槍ヶ岳に至る新たなルートとなった

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上高地」の記事における「人間史」の解説

17世紀 - 古来より「神河内徳郷(かみこうちとくごう)」と呼ばれていた上高地明神地区に、樹木伐採のため松本藩役人小屋作られる(後の明神館) 1828年文政11年) - 越中僧侶播隆ばんりゅう)が槍ヶ岳登り仏像安置する 1885年明治18年) - 上高地牧場開設 1896年明治29年) - ウォルター・ウェストン日本アルプスイギリス紹介 1910年明治43年) - 河童橋を、丸太跳ね橋から吊り橋変更 1915年大正4年) - 焼岳噴火梓川堰き止められ大正池形成される 1924年大正13年) - 手掘り工事により旧釜トンネル開通 1926年昭和2年) - 中ノ湯まで車道開通 1927年昭和3年) - 発電所への取水ダム大正池設置 - 上高地および河童橋題材にした芥川龍之介小説河童発表 - 日八景渓谷部門天竜峡抑えて選定される 1928年昭和4年) - 国の名勝および天然記念物指定される。中ノ湯まで乗合バス運行 1933年昭和8年) - 乗合バス大正池まで延長帝国ホテル開業 1934年昭和9年) - 中部山岳国立公園指定される上高地牧場閉鎖 1935年昭和10年) - 乗合バス河童橋まで延長徳沢牧場閉鎖 1937年昭和12年) - ウェストン碑を建立 1947年昭和22年) - 第1回ウェストン祭 - 以後毎年6月第1日曜の前日翌日開催 1949年昭和24年) - 「上高地の主」と呼ばれた内野常次郎が死亡 1954年昭和29年1月20日 - 県道松本槍ケ岳線の一部主要地方道上高地公園線指定1952年昭和27年) - 国の特別名勝および特別天然記念物指定される 1965年昭和40年7月13日 - 集中豪雨により国道などが寸断上高地入っていた登山者ら約400人が孤立3日後、一部徒歩下山1975年昭和50年) - 7〜8月のマイカー規制開始 1977年昭和52年) - 大正池堆積した土砂浚渫しゅんせつ)を開始 1996年平成8年) - 通年マイカー規制開始 1997年平成9年) - 安房トンネル開通 1999年平成11年9月15日 - 県道釜トンネル上高地出口付近土砂災害によりスノーシェッド崩落通行止となり約1300人が孤立2003年平成15年) - 観光センターオープン(以降上高地バスターミナル2004年平成16年) - 7〜8月(当時2016年は7〜10月25日間)の観光バス規制開始2005年平成17年) - 新釜トンネル開通 2007年平成19年) - 日本の地質百選に「上高地と滝谷花崗岩」として選出 2010年平成22年6月28日 - 安房峠道路無料化社会実検開始(約1年間2011年平成23年4月27日 - 上高地開山祭開催され映画『岳-ガク-』主演小栗旬長澤まさみ特別ゲストとして参加 2016年平成28年7月19日 - 県道上高地公園線上高地トンネル開通2020年令和2年4月22日 - 同日以降長野岐阜県周辺震源とする地震頻発雪崩土砂崩落等が発生したものの人的被害なし 5月16日 - 2019新型コロナウイルス感染拡大のため、運休続けてきた路線バス再開タクシーホテル旅館山小屋営業自粛解除 7月8日 - 集中豪雨により国道寸断上高地入っていた観光客ら約300人が孤立2022年令和4年4月27日 - 県道法面崩壊して通行不能になり開山式が中止前日からの宿泊客ら約750人が孤立

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塩見岳」の記事における「人間史」の解説

1902年明治35年)に、家中虎之介測量のため登頂しその後二等三角点設置された。 1917年大正6年7月21日に、慶應義塾大学山岳部中條常七らが西山温泉から赤石岳縦走の際に登頂した1918年大正7年)に、木暮理太郎武田久吉が、南アルプス北部縦走登頂した1935年昭和7年3月31日に、立教大学山岳部の奥平昌英らが北俣尾根から積雪登頂した1935年昭和10年)に、鹿塩温泉経営者である平瀬太郎三伏小屋建設した1964年昭和39年6月1日に、南アルプス国立公園指定された。 1993年平成5年)に、倉林道が開通し多く登山者がこの林道終点登山口から塩見岳登頂するようになったそれ以前は、塩川小屋からの登山道多く登山者利用されていた。 1997年平成9年)から、登山者増加に伴う水場水質汚染などのため、塩見小屋ではキャンプ禁止となった2000年平成12年)から、地下浸透トイレ廃止しヘリコプター輸送による処理を行うようになった

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南鳥島」の記事における「人間史」の解説

20万年前(第四紀更新世) - 隆起して島となる。 1543年スペイン東洋艦隊のベルナンド・デ・ラ・トーレによる探検航海中に南鳥島初め発見されとされる1864年ハワイミッション船「モーニング・スター」が南鳥島確認記録確かなのはこれが最初であるという。1874年にはアメリカ測量船「Tuscarora」が、フランス軍艦「Eclai-leu」が島の位置測量している。また、1860年ごろ、アメリカ人宣教師マーカス島命名した1889年アメリカ商船ワーレン」の船長ローズヒルが島に上陸したこの人物は後に日本との間で問題引き起こすこととなる。 1885年イギリス帆船ナット」が島に打ち寄せられた際に日本人乗組員が島に上陸したまた、1886年(または1883年)には、コンシロウー商会イギリス船「エター」から信崎常太郎(信岡常太郎とするものもある)という日本人上陸したという。他に、静岡県斎藤清左衛門が、島を1879年視認1893年には上陸した主張している。 1896年12月3日水谷新六南鳥島発見し水谷は島でのアホウドリ捕獲事業開始した翌年水谷島嶼発見届を提出し、島は1898年7月24日付の東京府告第58号で南鳥島として日本の領土編入東京府小笠原島所管とされた。南鳥島借地権めぐって水谷斎藤清左衛門との間で争いがあったが、同年南鳥島水谷10年間貸し付けられることとなった1902年明治35年) - アメリカ人A・A・ローズヒルがアメリカ合衆国による領有権主張して開拓試みるが、それを察知した大日本帝国軍艦笠置派遣し先に上陸して牽制した(南鳥島事件)。この事件の際、軍艦高千穂」に同乗していた地質調査所技師南鳥島の土を採取分析リン酸分が30程度であったことから、南鳥島燐鉱国内産地として注目される1903年明治36年) - 2月水谷東京府に「採取願」を提出3月に府より許可降りる。これにより鳥糞石グアノ)の採掘本格化する。最盛期には年間1,000トングアノ採掘。島の中央部において採掘され現場から沿岸部敷設されトロッコによって運搬され貨物船出荷された。主な出荷先東京の「全国肥料取次所であったグアノ採掘従事する労働者6070人をかぞえた。大正初期の生産高は年間600トンであった。 この時期南鳥島事業権利水谷から「南鳥島合資会社」に移転1922年大正11年)- グアノ事業権利全国肥料株式会社移転するグアノ採掘その後続いたが、不況によるグアノ肥料価格急落資源枯渇などから昭和初期までにグアノ事業終了会社及び労働者南鳥島から撤退した昭和初期 - 漁業を営む数世帯暮らしていたという。 1933年昭和8年) - 全島民が撤収し無人島になる。 1935年昭和10年) - 大日本帝国海軍気象観測所開設する1942年昭和17年3月4日 - 太平洋戦争中ウィリアム・ハルゼー中将麾下アメリカ海軍第16任務部隊空母エンタープライズ旗艦)により、南鳥島東京府内で初め空襲を受ける(日本本土へ初空襲は同年4月ドーリットル空襲)。その後1943年昭和18年8月31日など何度も空襲受けた1943年昭和18年7月1日 - 東京都制施行東京府廃止)。 1945年昭和20年) - 連合国軍一国であるアメリカ軍によって占領される1946年昭和21年1月26日 - 連合軍総司令部SCAPIN-677指令し日本の南鳥島への施政権停止される1947年昭和22年) - 台風発生に伴う高潮被害受けたため、アメリカ軍撤退して無人島となる。 1951年昭和26年) - 日本の気象庁アメリカ合衆国連邦政府委託を受け、南鳥島気象観測業務始める。 1952年昭和27年) - サンフランシスコ講和条約によって、正式にアメリカ施政権下に入る。 1963年昭和38年) - 南鳥島ロランC局完成する。これを受け、南鳥島アメリカ沿岸警備隊駐留し日本の気象庁職員撤収する。 1968年昭和43年6月26日 - アメリカより返還され東京都小笠原村属する。海上自衛隊南鳥島航空派遣隊編成される1993年平成5年) - 南鳥島ロランC局管理していたアメリカ沿岸警備隊撤収し海上保安庁管理引き継ぐ2002年平成14年12月10日 - 国土地理院により電子基準点設置され日本東端の点となる。 2006年平成18年9月1日 - 台風12号接近により、気象観測所職員全員一時島外避難2009年平成21年11月1日 - 環境省鳥獣保護区指定2009年平成21年12月1日 - 南鳥島ロランC局LORAN自体の)廃止に伴い海上保安庁職員撤収2010年平成22年5月18日 - 南鳥島などの離島保全目的とした低潮線保全・拠点施設整備法案が衆議院全会一致通過5月26日参議院全会一致可決成立し一部規定除き6月24日施行2011年平成23年3月31日 - 南鳥島港湾保全管理所の仮庁舎完成2012年平成24年6月28日 - 東京大学研究チームにより、南鳥島付近海底レアアース発見される翌年3月鉱床一部高濃度であることが発見される

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安和岳」の記事における「人間史」の解説

安和岳方言で「アーダキ」という。『ペリー艦隊日本遠征記』に所載された地図には、嘉津宇岳安和岳八重岳一帯を「NATCHIJIN MOUNTAINS (ナチジン山地)」と記している。 かつて首里王府仕えていた幸地里主幸地里之子といわれる役人が、首里から追放され安和岳山中潜んだという伝説があり、8合目の南斜面に彼が隠れたといわれる洞穴存在する部下連れて来た彼は当初村人から歓迎されていたが、次第労働意欲失い終いには農作物荒らすなど、村人から山賊呼ばれるようになったという。また、麓にある安和女性たちは彼らに襲われるので、村人生まれてくる娘が美人ならないように願ったという。村の人々は、首里からの軍勢安和岳攻め入るという知らせ流して退治計画立てた夕方数十隻の船が名護湾出され松明に火をつけ、それに伴い銅鑼鐘の音響き渡った村人は、首里の軍が山賊退治しに来たと叫びその様子に驚いた山賊去っていったという。 安和本部町を結ぶ道路(後の国道449号)が完成する1934年昭和9年)までは、山間の道を利用しなければならず、当時人力での運搬が主であり、収穫したシークヮーサー女性たちが、安和岳の西にある我謝如古バンタの道を徒歩売りに出かけたが、シークヮーサー売値安く現金収入少なかったという。戦時中我謝如古バンタ周辺には周辺住民避難小屋設けられ、また日本軍兵舎もあった。戦後入ってしばらく、我謝如古バンタの奥に十数軒の集落存在したが、移住により消滅し、生活跡が残っている。ここから通う子供らは、学校まで1時間半以上を要し、また大雨により一時的に冠水し流れ速くなるため、通学できないこともあった。

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諏訪盆地」の記事における「人間史」の解説

明治時代、国の富国強兵政策主要産業であった製糸業栄えた諏訪湖などが豊富であったためと思われる戦時中は、それまで廃れてしまっていた製糸業倉庫などに、都会から疎開してきた軍需工場多く入居した戦後多く軍需工場出て行ったが、いくつかの工場残り精密機械産業発展している。その背景に、諏訪盆地空気湿気少なくきれいな空気であることから、精密機械製造する場所に向いていることや、原料製品小型かつ軽量のため、交通不便な中央高地でも輸送容易にできることなどが挙げられる

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北岳」の記事における「人間史」の解説

古くから、北岳間ノ岳農鳥岳一帯山体は、「白い雪をかむった山」という意味で白根山または白峰山呼ばれた平安時代前期和歌集古今和歌集』では「君すまば甲斐の白嶺のおくなりとふみわけてゆかざらめやは」と詠われ、平安期の『後拾遺和歌集』では、「いづかた甲斐の白ねは知らねども、降るごとに思ひこそすれ」と詠まれた。鎌倉時代成立した軍記文学『平家物語』では「北に遠ざかり雪白山あり、問へば甲斐の白嶺といふ」と記された。 江戸時代後期成立した甲斐国地誌甲斐国志』では、「南北連なり三峯あり、其北の方最も高き者を指して専ら白峯称す」と記された。南北連なる白峰山の、一番北にあることから北岳呼ばれるようになった。現在では三つの峰それぞれ1つの山として取り扱っているが、これらの山々合わせて白峰三山しらねさんざん)と呼ぶこともある。 また、江戸時代制作され甲斐国絵図類においても白根岳富士山八ヶ岳とともに冠雪雲上表現登山道省略など神格表現描写されており、甲府盆地を抱く特殊な霊山として認識されていたと考えられている。 1964年昭和39年6月1日には、赤石山脈多くの山域が南アルプス国立公園指定され、山の上部はその特別保護地区山腹特別地域となっている。1980年昭和55年)には北沢峠越え南アルプススーパー林道開通しその後長野県山梨県両方向から、登山及び観光用バス運行されるようになった2004年平成16年10月15日には国土地理院最高点標高を3193 mに改定それ以前標高3192 mと公表されていたが、山頂三等三角点 (3192.18 m)より南の岩盤の方が約80 cm高いことが確認されたためである。

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狭山池 (大阪府)」の記事における「人間史」の解説

『日本書紀』の記述崇神天皇62年7月2日の条「農は天下大本なり。…今、河内狭山植田少なし是を以て其の国の百姓、農のことを怠る其れ多に池溝開き民業寛かにせよ」 『古事記』記述垂仁天皇の段「印色入日子命編者注;垂仁天皇皇子)、血沼池狭山池作る」 『枕草子』に狭山池についての記述がある。 1600年慶長5年) 池の東畔に北条氏治め狭山藩陣屋置かれる1941年昭和16年 大阪府史跡名勝第1号指定1952年昭和27年)からボートレース開催狭山競走場)。1955年昭和30年閉鎖翌年住之江競艇場に移る。 2004年平成16年) 「日本最古狭山池から天野街道を巡るみち」として美しい日本の歩きたくなるみち500選選考2010年平成22年3月25日には農林水産省ため池百選選定2014年平成26年国際かんがい排水委員会によるかんがい施設遺産に登録。 2015年3月10日 国の史跡指定2020年令和2年)「国際水圏環境工学アジア・太平洋地域部会 遺産賞」を、辰巳用水石狩川流域治水・利水施設とともに日本で初受賞

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鳥海山」の記事における「人間史」の解説

鳥海山史』によれば由利郡小瀧鳥海山修験拠点一つ)の旧記敏達天皇7年578年1月16日噴火したことが、由利郡直根村旧記推古天皇御代噴火元明天皇和銅年間708年 - 715年)に噴火したことが、由利郡矢島鳥海山修験拠点一つにおいては元正天皇養老元年717年6月8日噴火したことが伝えられている。同書では、いずれも正史記事ではないので安易に信ずることはできないが、真実であれば鳥海山578年から717年の約140年間ほど活動期だったのではないか考察している。 この山は正史大物忌神の名で登場し、度々神階陞叙受けているが、正史現れ最初授位記事は『続日本後紀承和5年838年5月11日の条における記述である。(神階陞叙詳細について鳥海山大物忌神社参照のこと。)大物忌神という神について山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』では、物忌とは斎戒にして不吉不浄忌むということであり、夷乱凶変忌み嫌って予め山の爆発発生させる神であると大和朝廷考えたではないか、と考察している。『日本の神々 -神社聖地- 12 東北北海道』においても国事兵乱との関係で畏敬尊崇対象となっていたと述べ、『鳥海山史』も同様の考察をしている。しかし、秋田県郷土史家牧久穂は、大物忌神大和朝廷による蝦夷征服歴史反映し蝦夷怨霊鎮める意味の神名だと述べている。 『続日本後紀承和7年840年7月26日の条では大物忌神従四位勳五等陞叙しているが、同記事では陞叙理由を、大物忌神雲の上にて十日間渡り鬨の声をあげた後、石の兵器降らし遠く南海海賊襲われていた遣唐使船に加護与えて敵の撃退神威表したからだとしている。この記事により、大物忌神出羽国火山らしいことが初めてわかるが、山の姿より詳細記述し大物忌神現在の鳥海山であると推定できるのは、『日本三代実録貞観13年871年5月16日の条にある、下記出羽国司の報告である。 《出羽国司の報告従三位勳五等大物忌神社飽海郡山上にある。巖石が壁立し、人が到ることは稀である。夏も冬も戴き草木は禿て無い。去る4月8日噴火があり、土石焼き雷鳴のような声を上げた山中より流れ出る河は青黒く色付いて泥水溢れ、耐え難いほどの臭気充満している。死んだで河は塞がり長さ10丈(約30 m)の大蛇2匹が相連なって海へ流れていった。それに伴う小数知れずである。河の緑の流れ損ずるものが多く中には濁った浮いているものもある。古老尋ねたところ、未曾有の異変であるが、弘仁年間810年 - 824年)に噴火した際は幾ばくもせず戦乱があった、とのことであった。そこで報告受けた朝廷陰陽寮にて占い行ったところ、結果全て出羽名神祈祷したが後の報祭怠り、また冢墓の骸骨山水汚しているため怒り発して山が焼けこの様災異起こったのだ。もし鎮謝報祭を行わなければ戦乱が起こる、と言うものであった。そこで奉賽を行うと共に神田汚している冢墓骸骨除去せよと国守命じた。》 以上の記事から『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、四時戴いて草木生えず登山困難な高山で、しかも4月8日噴火したとあり、出羽国飽海郡そのような山は一つしかないので鳥海山推定される、と述べている。また、日本の神々 -神社聖地- 12 東北北海道』では、『日本三代実録貞観13年5月16日の条にある「長さ10丈の大蛇2匹」とは2本の泥流であろうと言われている、との説を紹介している。 その後も『日本三代実録』には、元慶8年884年9月29日の条において「6月26日秋田城石鏃23降った」との記述仁和元年885年11月21日の条において「6月21日出羽国秋田城中および飽海郡神宮寺西浜石鏃振った」との記述見られるが、噴火があったのかは不明である。噴火確認できるのは『本朝世紀天慶2年939年4月19日の条にある「大物忌明神の山が燃えた」との記述で、これが中世では最後噴火記録となり、以後数百年間史上噴火記録を見ることはなくなる。 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』では、元来鳥海山山名無く、山そのものが「大物忌神」と呼ばれていたと述べているが、前述のように『続日本後紀』および『日本三代実録』では「大物忌神」、『本朝世紀』では「大物忌明神の山」と記述され鳥海山という名では呼ばれていない。鎌倉時代成立した『吾妻鏡』においても「北山」と呼ばれ鳥海山と言う名では呼ばれないと『鳥海山史』では述べている。鳥海山という名が文字として確認できる最古のものは、暦応5年1342年7月26日藤原守重が息災延命意趣をもって奉納した鰐口銘に見えるものであると『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』では紹介している。しかし、『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、この鰐口銘も山全体の名称であるかについては疑問があると考察している。その理由同書では、永正7年1510年編集の『羽黒山在庁年代記』に「本宮大権現欽明天皇七年丙寅年、飽海嶽出現。今の鳥海権現是也」とあるので鳥海権現号、山号は飽海嶽であると言うことになり、山号鳥海とする資料近世になって見当たらないからだと述べている。また、鳥海山由来について定説が無い。『鳥海山史』では、山腹鳥海湖に由来する説を紹介した後、鳥海彌三郎由来するではないかとの考察行っている。 鳥海山中世後期以降修験道の場となり、矢島小滝吹浦岡などの主要登山口修験者集うようになった。『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、岡が鳥海修験の一拠点となった時期吹浦神宮寺置かれた頃と推測し、『鳥海山史』では、吹浦岡よりも矢島方面修験道が相当古い由緒持っている推測しているが、峰々の曼荼羅化や入峰方式どの様確立され行ったのか、各登山口にいつから修験者住み着いたか等については、史料欠けており正確に分かっていない。各登山口修験者は、連綿とした事由からお互いに反目対立するようになっていき、江戸時代には修験者同士争い矢島藩庄内藩巻き込んだ境争い発展江戸幕府の裁定によって山頂飽海郡とされている。(詳しく岡、矢島の嶺境の論争参照のこと。) 近世入り、再び鳥海山噴火史上現れる。『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山によれば、『由利郡仁賀保旧記』に万治2年1659年噴火記事見えるという。しかし、庄内側に記録がないので、北面噴火だったのかもしれない推測している。『出羽風土略記』には元文5年1740年5月上旬噴火によって山上瑠璃の壺、不動石、硫黄と言われる辺り焼けたとの記述がある。寛政12年1800年)の冬から文政4年1821年)に至る期間にも鳥海山噴火しており、特に享和元年1801年)の噴火激烈極め新山享和岳)を生成し、『文化大地震鳥海山噴火由来によれば火山弾によって8人の死者出したのだと言う現代においても、昭和49年1974年3月噴煙をあげたことから全山入山禁止となり、『山形縣神社誌』によれば山頂大物忌神社中腹造営した中の宮」へ遷座している。

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人間史

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汐ノ宮火山岩」の記事における「人間史」の解説

天暦元年(947年以降 - 菅原道真公祀る目的として火山岩の上横山天神祠が安置される南北朝時代 (1337年) - 南朝方の武士達が火山岩より湧出している鉱泉浸かって療養していたという伝承伝わっている。 嘉永6年1853年3月 - 西国三十三名図会河内名所図会において横山天神と共に潮湧岩という名前で紹介される明治40年(1907年) - 横山天神祠が彼方春日神社合祀される。 明治43年 (1910年) - 横山天神祠の跡地旅館開館する明治44年(1911年) - 汐ノ宮駅開業する大正12年 - 大鉄により汐ノ宮温泉浴場開設される昭和9年 - 大鉄汐ノ宮温泉興業株式会社設立し温泉施設拡張が行われる。 昭和15年 - 大鉄汐ノ宮温泉興業株式会社吸収合併し、直営に戻る。 昭和18年 - 大鉄経営による汐ノ宮温泉浴場廃業となる。令和3年現在、民間温泉研修センター跡地作られている。 平成元年(1989年) - 日本地学教育学会刊行物において教育題材として汐ノ宮火山岩紹介される平成26年(2014年) - 大阪府レッドリスト地形地質版に掲載される

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