人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 05:03 UTC 版)
1893年(明治26年)5月11日 - 英国人のウォルター・ウェストンが前宮ルートから、外国人としての初登頂をした。 1951年(昭和26年)11月22日 - 長野県の中央アルプス県立自然公園(後の中央アルプス国定公園)に指定された。 1959年(昭和34年) - 黒井沢林道からの黒井沢ルートの登山道が整備された。 1960年(昭和35年)4月21日 - 日本百名山の著者である深田久弥が黒井沢ルートから登頂し、神坂ルートを下り、翌日に萬岳荘に宿泊した。 1975年(昭和50年)8月23日 - 中央自動車道の恵那山トンネルが開通した。 1996年(平成8年) - ヘブンスそのはらスキー場が開業した。 2001年(平成13年)10月7日 - 長野県側の阿智村からの広河原ルートの登山道が開設された。 2001年 - 中津川市の川上に恵那山ウェストン公園が整備され、ウェストンの銅像が設置された。 2006年(平成18年) - 木製の櫓状の山頂展望台が建てられた。 2007年(平成19年)6月2日 - 緑化作業中の東邦航空のヘリコプターが山頂付近に墜落する事故が発生。 11月15日午前10時40分頃 - 東邦航空の小型飛行機セスナ404が山頂付近に墜落する事故が発生。登山道にいた登山者に倒木が当たり負傷したとされている。
※この「人間史」の解説は、「恵那山」の解説の一部です。
「人間史」を含む「恵那山」の記事については、「恵那山」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 09:56 UTC 版)
日本武尊が東征の際訪れ、先住民の豪族の阿久留王(あくるおう、「悪路王」ともいわれる)と戦い征伐したという伝説がある。598年、聖徳太子により神野寺が開山され、その後修験道の山として、また上総国と安房国を結ぶ街道の町として栄えた。 鹿野山は平地から視認しやすく、旧・東京天文台から日本経緯度原点の方向の基準である原方位を定めるために、1879年には日本最初の一等三角点が山頂に置かれた。その後も2001年の測量法改正まで原方位とされていた。1956年には国土地理院の測地観測所が設置され、地磁気や人工衛星の観測などが行われている。なお、地磁気観測は房総西線の直流雹化により支障を生じたため、観測機器の改良などを実施した。1960年代、マザー牧場とゴルフ場がオープンし観光の山となった。 南側斜面は地盤が弱く、1970年梅雨時の豪雨などによりたびたび崩壊している。
※この「人間史」の解説は、「鹿野山」の解説の一部です。
「人間史」を含む「鹿野山」の記事については、「鹿野山」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 22:07 UTC 版)
『出雲国風土記』には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」とあり、『伯耆国風土記』の逸文は「夜見島」の北西部に「余戸里」(現在の境港市外江町付近)が存在したと記されている[要出典]ことから、古くは島であったと考えられている。その後、日野川が運搬してきた土砂が堆積した結果、半島が形成された。ただ、1398年(応永5年)に成立した『大山寺縁起絵巻』には弓ヶ浜半島が描かれているため、すでに平安時代には半島が形成されていたと言われている。 半島北部に位置する境と外江の周辺は、古くから水上交易の重要な寄港地の1つであった。戦国時代には戦略的に重要な水軍の拠点とされ、尼子氏や毛利氏などによって、ここを争奪する戦いが相次いで行われた。1471年(文明3年)8月には境松合戦、1563年(永禄6年)11月には弓浜合戦 (浜目合戦)などが起こった。その後は毛利氏の支配下に置かれ、吉川氏の管掌下にあった。江戸時代に入ると隣接する美保関と共に北前船などの寄港地として栄え、漁業も盛んであった。 半島として陸続きになったことで農業が行われるようになったものの、農業用水の確保が難しかったため、旱魃時の被害が大きかった。これを克服するために、1700年に米村所平の提案に基づき、鳥取藩によって車尾村大字観音寺戸上から弓ヶ浜半島への水路開削が開始された。3段階に亘って行われた用水路の拡張工事により、1759年には先端の境港まで延長され、提案者である米村の1文字をとって「米川(よねがわ)」と命名された。水田のみならず、木綿の産地として成長し、木綿は藩を代表する特産物となって「伯州綿」(伯耆の木綿)と呼ばれ、弓浜絣が発達した。このほか麦や藍、甘藷などが栽培された。明治20年代になると、外国産の安い木綿が輸入され、弓ヶ浜半島での綿作りは衰退し始めた。綿に代わって栽培されたのは桑の木で、養蚕が主体となった。しかし、養蚕も第2次世界大戦の影響で、弓ヶ浜半島では終焉を迎えた。 半島の付け根の皆生温泉は、海底に湧出していた温泉だったが、日野川の運搬する土砂の堆積により、20世紀初頭には比較的利用し易い場所に泉源を求められるようになったため、20世紀に入ってから開湯された。しかし、その後、激しい海岸侵食が発生し、温泉施設の一部も侵食によって破壊された。また、20世紀最後の年に発生した鳥取県西部地震では弓ヶ浜半島の沿岸部の埋め立て地で液状化現象が多発した。これに対して、弓ヶ浜半島の内陸部で液状化現象が発生した箇所は限られたものの、例外として、かつて砂を採取していた場所を埋め戻して住宅地として造成した場所だけ、この鳥取県西部地震の際に液状化の被害を局地的に受けた。
※この「人間史」の解説は、「弓ヶ浜半島」の解説の一部です。
「人間史」を含む「弓ヶ浜半島」の記事については、「弓ヶ浜半島」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 19:23 UTC 版)
1828年(文政11年)7月20日 (旧暦) - 播隆上人が中田又重郎(現在の安曇野市三郷小倉)などの協力を得て初登頂し開山したとされる。 1878年(明治11年)7月28日 - ウィリアム・ゴーランドが外国人としての初登頂。 1892年(明治25年)8月 - ウォルター・ウェストンが登頂。 1902年(明治35年) - 小島烏水が登頂し、以後多くの日本人が登頂するようになった。 1913年(大正2年) - 夏にウォルター・ウェストン夫妻が登頂。ウェストン夫人が女性としての初登頂。田部重治らが島々から徳本峠を越えて、上高地を経て立山温泉までの飛騨山脈大縦走の際に登頂した。 1915年(大正4年) - 内藤千代子が、日本人女性としての初登頂。 1916年(大正5年)8月 - 東久邇宮稔彦王らが登頂し、周辺の登山道が整備されるようになった。 1920年(大正9年)秋 - 小林喜作らにより、中房温泉から槍ヶ岳に向かう当時最短ルートであった喜作新道が開設された。 1922年(大正11年)6月 - 小林喜作が殺生小屋(現在の殺生ヒュッテ)を開業。日本百名山の著者である深田久弥が登頂。 夏 - 土橋荘三・中山彦一パーティーが小槍南面フェイス右ルートを初登攀。 冬 - 慶應義塾大学のパーティーが槍ヶ岳冬期初登頂。 1924年(大正13年)冬 - 麻生武治がスキーで登頂。 1926年(大正15年)8月 - 穂苅三寿雄により槍ヶ岳山荘が建造された。 1927年(昭和2年) 伊藤愿が小槍単独初登攀。 1934年(昭和9年)12月4日 - 山域は、中部山岳国立公園に指定された。その特別保護地区に指定されている。 1936年(昭和11年)1月 - 加藤文太郎が北鎌尾根で遭難。 1949年(昭和24年)1月 - 松濤明が北鎌尾根でパートナー有元克己と共に遭難死。後に『風雪のビバーク』が出版される。 1959年(昭和34年) - 12月20日 - 専修大学山岳部員が北鎌尾根を登山中に雪崩に遭遇し、9名が死亡した。 1968年(昭和43年)5月 - 新田次郎が『槍ヶ岳開山』 の播隆上人を主人公とした伝記小説を文藝春秋 から出版した。 2005年(平成17年)秋 - 左俣谷から奥丸山へ登る登山道が新設された。これにより、新穂高温泉から左俣谷沿いの道を遡り奥丸山から稜線づたいに槍ヶ岳に至る新たなルートとなった。
※この「人間史」の解説は、「槍ヶ岳」の解説の一部です。
「人間史」を含む「槍ヶ岳」の記事については、「槍ヶ岳」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 00:10 UTC 版)
17世紀 - 古来より「神河内徳郷(かみこうちとくごう)」と呼ばれていた上高地の明神地区に、樹木伐採のため松本藩の役人小屋が作られる(後の明神館) 1828年(文政11年) - 越中の僧侶播隆(ばんりゅう)が槍ヶ岳に登り、仏像を安置する 1885年(明治18年) - 上高地牧場開設 1896年(明治29年) - ウォルター・ウェストンが日本アルプスをイギリスに紹介 1910年(明治43年) - 河童橋を、丸太の跳ね橋から吊り橋に変更 1915年(大正4年) - 焼岳の噴火で梓川が堰き止められ、大正池が形成される 1924年(大正13年) - 手掘り工事により旧釜トンネル開通 1926年(昭和2年) - 中ノ湯まで車道開通 1927年(昭和3年) - 霞沢発電所への取水ダムを大正池に設置 - 上高地および河童橋を題材にした芥川龍之介の小説『河童』発表 - 日本八景の渓谷部門で天竜峡を抑えて選定される 1928年(昭和4年) - 国の名勝および天然記念物に指定される。中ノ湯まで乗合バス運行 1933年(昭和8年) - 乗合バスを大正池まで延長。帝国ホテル開業 1934年(昭和9年) - 中部山岳国立公園に指定される。上高地牧場閉鎖 1935年(昭和10年) - 乗合バスを河童橋まで延長。徳沢牧場閉鎖 1937年(昭和12年) - ウェストン碑を建立 1947年(昭和22年) - 第1回ウェストン祭 - 以後毎年6月第1日曜の前日〜翌日に開催 1949年(昭和24年) - 「上高地の主」と呼ばれた内野常次郎が死亡 1954年(昭和29年)1月20日 - 県道松本槍ケ岳線の一部を主要地方道上高地公園線に指定。 1952年(昭和27年) - 国の特別名勝および特別天然記念物に指定される 1965年(昭和40年)7月13日 - 集中豪雨により国道などが寸断。上高地に入っていた登山者ら約400人が孤立。3日後、一部が徒歩で下山。 1975年(昭和50年) - 7〜8月のマイカー規制開始 1977年(昭和52年) - 大正池に堆積した土砂の浚渫(しゅんせつ)を開始 1996年(平成8年) - 通年のマイカー規制開始 1997年(平成9年) - 安房トンネル開通 1999年(平成11年)9月15日 - 県道の釜トンネル上高地側出口付近で土砂災害によりスノーシェッドが崩落。通行止となり約1300人が孤立。 2003年(平成15年) - 観光センターオープン(以降上高地のバスターミナル) 2004年(平成16年) - 7〜8月(当時。2016年は7〜10月の25日間)の観光バス規制開始。 2005年(平成17年) - 新釜トンネル開通 2007年(平成19年) - 日本の地質百選に「上高地と滝谷花崗岩」として選出 2010年(平成22年)6月28日 - 安房峠道路の無料化社会実検開始(約1年間) 2011年(平成23年)4月27日 - 上高地開山祭が開催され、映画『岳-ガク-』主演の小栗旬と長澤まさみが特別ゲストとして参加 2016年(平成28年)7月19日 - 県道上高地公園線に上高地トンネル開通。 2020年(令和2年)4月22日 - 同日以降、長野・岐阜県境周辺を震源とする地震が頻発。雪崩や土砂崩落等が発生したものの人的被害なし 5月16日 - 2019新型コロナウイルス感染拡大のため、運休を続けてきた路線バスが再開。タクシー、ホテル、旅館、山小屋の営業自粛が解除 7月8日 - 集中豪雨により国道が寸断。上高地に入っていた観光客ら約300人が孤立。 2022年(令和4年)4月27日 - 県道の法面が崩壊して通行が不能になり開山式が中止。前日からの宿泊客ら約750人が孤立。
※この「人間史」の解説は、「上高地」の解説の一部です。
「人間史」を含む「上高地」の記事については、「上高地」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 06:04 UTC 版)
1902年(明治35年)に、家中虎之介が測量のため登頂し、その後二等三角点が設置された。 1917年(大正6年)7月21日に、慶應義塾大学山岳部の中條常七らが西山温泉から赤石岳縦走の際に登頂した。 1918年(大正7年)に、木暮理太郎と武田久吉が、南アルプス北部を縦走し登頂した。 1935年(昭和7年)3月31日に、立教大学山岳部の奥平昌英らが北俣尾根から積雪期登頂した。 1935年(昭和10年)に、鹿塩温泉の経営者である平瀬理太郎が三伏小屋を建設した。 1964年(昭和39年)6月1日に、南アルプス国立公園に指定された。 1993年(平成5年)に、鳥倉林道が開通し、多くの登山者がこの林道終点の登山口から塩見岳へ登頂するようになった。それ以前は、塩川小屋からの登山道が多くの登山者に利用されていた。 1997年(平成9年)から、登山者増加に伴う水場の水質汚染などのため、塩見小屋ではキャンプ禁止となった。 2000年(平成12年)から、地下浸透トイレを廃止し、ヘリコプター輸送による処理を行うようになった。
※この「人間史」の解説は、「塩見岳」の解説の一部です。
「人間史」を含む「塩見岳」の記事については、「塩見岳」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 05:40 UTC 版)
約20万年前(第四紀更新世) - 隆起して島となる。 1543年、スペイン東洋艦隊のベルナンド・デ・ラ・トーレによる探検航海中に南鳥島が初めて発見されたとされる。1864年、ハワイのミッション船「モーニング・スター」が南鳥島を確認。記録が確かなのはこれが最初であるという。1874年にはアメリカの測量船「Tuscarora」が、フランス軍艦「Eclai-leu」が島の位置を測量している。また、1860年ごろ、アメリカ人宣教師がマーカス島と命名した。1889年、アメリカ商船「ワーレン」の船長ローズヒルが島に上陸した。この人物は後に日本との間で問題を引き起こすこととなる。 1885年、イギリス帆船「ナット」が島に打ち寄せられた際に日本人乗組員が島に上陸した。また、1886年(または1883年)には、コンシロウー商会のイギリス船「エター」から信崎常太郎(信岡常太郎とするものもある)という日本人が上陸したという。他に、静岡県の斎藤清左衛門が、島を1879年に視認し1893年には上陸したと主張している。 1896年12月3日に水谷新六が南鳥島を発見し、水谷は島でのアホウドリ捕獲事業を開始した。翌年、水谷は島嶼発見届を提出し、島は1898年7月24日付の東京府告第58号で南鳥島として日本の領土に編入。東京府小笠原島庁所管とされた。南鳥島の借地権をめぐって水谷と斎藤清左衛門との間で争いがあったが、同年、南鳥島は水谷に10年間貸し付けられることとなった。 1902年(明治35年) - アメリカ人A・A・ローズヒルがアメリカ合衆国による領有権を主張して開拓を試みるが、それを察知した大日本帝国も軍艦笠置を派遣し、先に上陸して牽制した(南鳥島事件)。この事件の際、軍艦「高千穂」に同乗していた地質調査所の技師が南鳥島の土を採取・分析。リン酸分が30%程度であったことから、南鳥島が燐鉱の国内産地として注目される。 1903年(明治36年) - 2月、水谷が東京府に「鳥糞採取願」を提出。3月に府より許可が降りる。これにより鳥糞石(グアノ)の採掘が本格化する。最盛期には年間1,000トンのグアノを採掘。島の中央部において採掘され、現場から沿岸部へ敷設されたトロッコによって運搬されて貨物船で出荷された。主な出荷先は東京の「全国肥料取次所」であった。グアノ採掘に従事する労働者は60~70人をかぞえた。大正初期の生産高は年間600トンであった。 この時期に南鳥島の事業の権利は水谷から「南鳥島合資会社」に移転。 1922年(大正11年)- グアノ事業の権利が全国肥料株式会社に移転する。グアノ採掘はその後も続いたが、不況によるグアノや肥料の価格急落、資源枯渇などから昭和初期までにグアノ事業は終了。会社及び労働者は南鳥島から撤退した。 昭和初期 - 漁業を営む数世帯が暮らしていたという。 1933年(昭和8年) - 全島民が撤収し、無人島になる。 1935年(昭和10年) - 大日本帝国海軍が気象観測所を開設する。 1942年(昭和17年)3月4日 - 太平洋戦争中、ウィリアム・ハルゼー中将麾下のアメリカ海軍第16任務部隊(空母エンタープライズ旗艦)により、南鳥島は東京府内で初めて空襲を受ける(日本本土への初空襲は同年4月のドーリットル空襲)。その後も1943年(昭和18年)8月31日など何度も空襲を受けた。 1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行(東京府廃止)。 1945年(昭和20年) - 連合国軍の一国であるアメリカ軍によって占領される。 1946年(昭和21年)1月26日 - 連合軍総司令部がSCAPIN-677を指令し、日本の南鳥島への施政権が停止される。 1947年(昭和22年) - 台風発生に伴う高潮で被害を受けたため、アメリカ軍が撤退して無人島となる。 1951年(昭和26年) - 日本の気象庁がアメリカ合衆国連邦政府の委託を受け、南鳥島で気象観測業務を始める。 1952年(昭和27年) - サンフランシスコ講和条約によって、正式にアメリカの施政権下に入る。 1963年(昭和38年) - 南鳥島ロランC局が完成する。これを受け、南鳥島にアメリカ沿岸警備隊が駐留し、日本の気象庁職員は撤収する。 1968年(昭和43年)6月26日 - アメリカより返還され、東京都小笠原村に属する。海上自衛隊南鳥島航空派遣隊が編成される。 1993年(平成5年) - 南鳥島ロランC局を管理していたアメリカ沿岸警備隊が撤収し、海上保安庁が管理を引き継ぐ。 2002年(平成14年)12月10日 - 国土地理院により電子基準点が設置され、日本最東端の点となる。 2006年(平成18年)9月1日 - 台風12号接近により、気象観測所職員全員が一時島外避難。 2009年(平成21年)11月1日 - 環境省が鳥獣保護区に指定。 2009年(平成21年)12月1日 - 南鳥島ロランC局(LORAN自体の)廃止に伴い海上保安庁職員が撤収。 2010年(平成22年)5月18日 - 南鳥島などの離島の保全を目的とした低潮線保全・拠点施設整備法案が衆議院を全会一致で通過。5月26日、参議院で全会一致で可決・成立し、一部規定を除き6月24日施行。 2011年(平成23年)3月31日 - 南鳥島港湾保全管理所の仮庁舎完成。 2012年(平成24年)6月28日 - 東京大学研究チームにより、南鳥島付近の海底でレアアースが発見される。翌年3月、鉱床の一部が高濃度であることが発見される。
※この「人間史」の解説は、「南鳥島」の解説の一部です。
「人間史」を含む「南鳥島」の記事については、「南鳥島」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 01:35 UTC 版)
安和岳は方言で「アーダキ」という。『ペリー艦隊日本遠征記』に所載された地図には、嘉津宇岳・安和岳・八重岳の一帯を「NATCHIJIN MOUNTAINS (ナチジン山地)」と記している。 かつて首里王府に仕えていた幸地里主(幸地里之子)といわれる役人が、首里から追放され、安和岳の山中に潜んだという伝説があり、8合目の南斜面に彼が隠れたといわれる洞穴が存在する。部下を連れて来た彼は当初、村人から歓迎されていたが、次第に労働意欲を失い、終いには農作物を荒らすなど、村人から山賊と呼ばれるようになったという。また、麓にある安和の女性たちは彼らに襲われるので、村人は生まれてくる娘が美人にならないように願ったという。村の人々は、首里からの軍勢が安和岳に攻め入るという知らせを流して、退治計画を立てた。夕方、数十隻の船が名護湾へ出され、松明に火をつけ、それに伴い銅鑼や鐘の音が響き渡った。村人は、首里の軍が山賊を退治しに来たと叫び、その様子に驚いた山賊は去っていったという。 安和と本部町を結ぶ道路(後の国道449号)が完成する1934年(昭和9年)までは、山間の道を利用しなければならず、当時は人力での運搬が主であり、収穫したシークヮーサーを女性たちが、安和岳の西にある我謝如古バンタの道を徒歩で売りに出かけたが、シークヮーサーの売値は安く、現金収入は少なかったという。戦時中、我謝如古バンタの周辺には周辺住民の避難小屋が設けられ、また日本軍の兵舎もあった。戦後に入ってしばらく、我謝如古バンタの奥に十数軒の集落が存在したが、移住により消滅し、生活跡が残っている。ここから通う子供らは、学校まで1時間半以上を要し、また大雨により一時的に冠水し、流れが速くなるため、通学できないこともあった。
※この「人間史」の解説は、「安和岳」の解説の一部です。
「人間史」を含む「安和岳」の記事については、「安和岳」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 09:06 UTC 版)
明治時代、国の富国強兵政策の主要産業であった製糸業で栄えた。諏訪湖など水が豊富であったためと思われる。戦時中は、それまでに廃れてしまっていた製糸業の倉庫などに、都会から疎開してきた軍需工場が多く入居した。戦後多くの軍需工場は出て行ったが、いくつかの工場が残り精密機械産業が発展している。その背景に、諏訪盆地の空気は湿気の少なく、きれいな空気であることから、精密機械を製造する場所に向いていることや、原料・製品が小型かつ軽量のため、交通の不便な中央高地でも輸送が容易にできることなどが挙げられる。
※この「人間史」の解説は、「諏訪盆地」の解説の一部です。
「人間史」を含む「諏訪盆地」の記事については、「諏訪盆地」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 02:18 UTC 版)
古くから、北岳、間ノ岳、農鳥岳一帯の山体は、「白い雪をかむった山」という意味で白根山または白峰山と呼ばれた。平安時代前期の和歌集『古今和歌集』では「君すまば甲斐の白嶺のおくなりと雪ふみわけてゆかざらめやは」と詠われ、平安期の『後拾遺和歌集』では、「いづかたと甲斐の白ねは知らねども、雪降るごとに思ひこそすれ」と詠まれた。鎌倉時代に成立した軍記文学『平家物語』では「北に遠ざかりて雪白き山あり、問へば甲斐の白嶺といふ」と記された。 江戸時代後期に成立した甲斐国地誌『甲斐国志』では、「南北に連なりて三峯あり、其北の方最も高き者を指して今専ら白峯と称す」と記された。南北に連なる白峰山の、一番北にあることから北岳と呼ばれるようになった。現在では三つの峰それぞれを1つの山として取り扱っているが、これらの山々を合わせて白峰三山(しらねさんざん)と呼ぶこともある。 また、江戸時代に制作された甲斐国絵図類においても白根岳は富士山や八ヶ岳とともに冠雪や雲上表現、登山道の省略など神格表現で描写されており、甲府盆地を抱く特殊な霊山として認識されていたと考えられている。 1964年(昭和39年)6月1日には、赤石山脈の多くの山域が南アルプス国立公園に指定され、山の上部はその特別保護地区、山腹は特別地域となっている。1980年(昭和55年)には北沢峠を越える南アルプススーパー林道が開通し、その後長野県と山梨県の両方向から、登山及び観光用のバスが運行されるようになった。 2004年(平成16年)10月15日には国土地理院が最高点の標高を3193 mに改定。それ以前標高3192 mと公表されていたが、山頂の三等三角点 (3192.18 m)より南の岩盤の方が約80 cm高いことが確認されたためである。
※この「人間史」の解説は、「北岳」の解説の一部です。
「人間史」を含む「北岳」の記事については、「北岳」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 15:41 UTC 版)
『日本書紀』の記述―崇神天皇62年7月2日の条「農は天下の大本なり。…今、河内の狭山の植田水少なし。是を以て其の国の百姓、農のことを怠る。其れ多に池溝を開きて民業を寛かにせよ」 『古事記』の記述―垂仁天皇の段「印色入日子命(編者注;垂仁天皇の皇子)、血沼池又狭山池を作る」 『枕草子』に狭山池についての記述がある。 1600年(慶長5年) 池の東畔に北条氏が治める狭山藩の陣屋が置かれる。 1941年(昭和16年 大阪府の史跡名勝第1号に指定。 1952年(昭和27年)からボートレース開催(狭山競走場)。1955年(昭和30年)閉鎖。翌年、住之江競艇場に移る。 2004年(平成16年) 「日本最古の狭山池から天野街道を巡るみち」として美しい日本の歩きたくなるみち500選に選考。 2010年(平成22年)3月25日には農林水産省のため池百選に選定。 2014年(平成26年)国際かんがい排水委員会によるかんがい施設遺産に登録。 2015年3月10日 国の史跡に指定。 2020年(令和2年)「国際水圏環境工学会アジア・太平洋地域部会 水遺産賞」を、辰巳用水や石狩川流域の治水・利水施設群とともに日本で初受賞。
※この「人間史」の解説は、「狭山池 (大阪府)」の解説の一部です。
「人間史」を含む「狭山池 (大阪府)」の記事については、「狭山池 (大阪府)」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:14 UTC 版)
『鳥海山史』によれば、由利郡小瀧(鳥海山修験の拠点の一つ)の旧記に敏達天皇7年(578年)1月16日噴火したことが、由利郡直根村旧記に推古天皇御代の噴火と元明天皇の和銅年間(708年 - 715年)に噴火したことが、由利郡矢島(鳥海山修験の拠点の一つ)においては元正天皇の養老元年(717年)6月8日噴火したことが伝えられている。同書では、いずれも正史の記事ではないので安易に信ずることはできないが、真実であれば鳥海山は578年から717年の約140年間ほど活動期だったのではないかと考察している。 この山は正史へ大物忌神の名で登場し、度々神階の陞叙を受けているが、正史に現れた最初の授位の記事は『続日本後紀』承和5年(838年)5月11日の条における記述である。(神階陞叙の詳細については 鳥海山大物忌神社 を参照のこと。)大物忌神という神について『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』では、物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むということであり、夷乱凶変を忌み嫌って予め山の爆発を発生させる神であると大和朝廷は考えたのではないか、と考察している。『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』においても国事兵乱との関係で畏敬尊崇の対象となっていたと述べ、『鳥海山史』も同様の考察をしている。しかし、秋田県の郷土史家田牧久穂は、大物忌神は大和朝廷による蝦夷征服の歴史を反映し、蝦夷の怨霊を鎮める意味の神名だと述べている。 『続日本後紀』承和7年(840年)7月26日の条では大物忌神を従四位下勳五等へ陞叙しているが、同記事では陞叙の理由を、大物忌神が雲の上にて十日間に渡り鬨の声をあげた後、石の兵器を降らし、遠く南海で海賊に襲われていた遣唐使船に加護を与えて敵の撃退に神威を表したからだとしている。この記事により、大物忌神が出羽国の火山らしいことが初めてわかるが、山の姿をより詳細に記述し、大物忌神が現在の鳥海山であると推定できるのは、『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある、下記の出羽国司の報告である。 《出羽国司の報告。従三位勳五等の大物忌神社は飽海郡の山上にある。巖石が壁立し、人が到ることは稀である。夏も冬も雪を戴き、草木は禿て無い。去る4月8日に噴火があり、土石を焼き、雷鳴のような声を上げた。山中より流れ出る河は青黒く色付いて泥水が溢れ、耐え難いほどの臭気が充満している。死んだ魚で河は塞がり、長さ10丈(約30 m)の大蛇2匹が相連なって海へ流れていった。それに伴う小蛇は数知れずである。河の緑の苗は流れ損ずるものが多く、中には濁った水に浮いているものもある。古老に尋ねたところ、未曾有の異変であるが、弘仁年間(810年 - 824年)に噴火した際は幾ばくもせず戦乱があった、とのことであった。そこで報告を受けた朝廷が陰陽寮にて占いを行ったところ、結果は全て、出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また冢墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ。もし鎮謝報祭を行わなければ戦乱が起こる、と言うものであった。そこで奉賽を行うと共に神田を汚している冢墓骸骨を除去せよと国守に命じた。》 以上の記事から『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、四時雪を戴いて草木も生えず、登山困難な高山で、しかも4月8日に噴火したとあり、出羽国飽海郡にそのような山は一つしかないので鳥海山と推定される、と述べている。また、『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』では、『日本三代実録』貞観13年5月16日の条にある「長さ10丈の大蛇2匹」とは2本の泥流であろうと言われている、との説を紹介している。 その後も『日本三代実録』には、元慶8年(884年)9月29日の条において「6月26日、秋田城へ石鏃23枚が降った」との記述、仁和元年(885年)11月21日の条において「6月21日、出羽国秋田城中および飽海郡神宮寺西浜に石鏃が振った」との記述が見られるが、噴火があったのかは不明である。噴火が確認できるのは『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条にある「大物忌明神の山が燃えた」との記述で、これが中世では最後の噴火の記録となり、以後数百年間は史上に噴火の記録を見ることはなくなる。 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』では、元来、鳥海山は山名が無く、山そのものが「大物忌神」と呼ばれていたと述べているが、前述のように『続日本後紀』および『日本三代実録』では「大物忌神」、『本朝世紀』では「大物忌明神の山」と記述され、鳥海山という名では呼ばれていない。鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』においても「北山」と呼ばれ鳥海山と言う名では呼ばれないと『鳥海山史』では述べている。鳥海山という名が文字として確認できる最古のものは、暦応5年(1342年)7月26日、藤原守重が息災延命の意趣をもって奉納した鰐口銘に見えるものであると『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』では紹介している。しかし、『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、この鰐口銘も山全体の名称であるかについては疑問があると考察している。その理由を同書では、永正7年(1510年)編集の『羽黒山在庁年代記』に「本宮大権現、欽明天皇七年丙寅年、飽海嶽に出現。今の鳥海権現是也」とあるので鳥海は権現号、山号は飽海嶽であると言うことになり、山号を鳥海とする資料が近世になっても見当たらないからだと述べている。また、鳥海山の由来についても定説が無い。『鳥海山史』では、山腹の鳥海湖に由来する説を紹介した後、鳥海彌三郎に由来するのではないかとの考察を行っている。 鳥海山は中世後期以降、修験道の場となり、矢島・小滝・吹浦・蕨岡などの主要登山口に修験者が集うようになった。『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、蕨岡が鳥海修験の一拠点となった時期は吹浦に神宮寺が置かれた頃と推測し、『鳥海山史』では、吹浦・蕨岡よりも矢島方面の修験道が相当古い由緒を持っていると推測しているが、峰々の曼荼羅化や入峰方式がどの様に確立されて行ったのか、各登山口にいつから修験者が住み着いたか等については、史料が欠けており正確には分かっていない。各登山口の修験者は、連綿とした事由からお互いに反目・対立するようになっていき、江戸時代には修験者同士の争いが矢島藩と庄内藩を巻き込んだ嶺境争いに発展、江戸幕府の裁定によって山頂が飽海郡とされている。(詳しくは 蕨岡、矢島の嶺境の論争 を参照のこと。) 近世に入り、再び鳥海山の噴火が史上に現れる。『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』によれば、『由利郡仁賀保旧記』に万治2年(1659年)噴火の記事が見えるという。しかし、庄内側に記録がないので、北面の噴火だったのかもしれないと推測している。『出羽風土略記』には元文5年(1740年)5月上旬の噴火によって山上の瑠璃の壺、不動石、硫黄谷と言われる辺りが焼けたとの記述がある。寛政12年(1800年)の冬から文政4年(1821年)に至る期間にも鳥海山は噴火しており、特に享和元年(1801年)の噴火は激烈を極め、新山(享和岳)を生成し、『文化大地震附鳥海山噴火由来』によれば火山弾によって8人の死者を出したのだと言う。 現代においても、昭和49年(1974年)3月に噴煙をあげたことから全山入山禁止となり、『山形縣神社誌』によれば山頂の大物忌神社が中腹に造営した「中の宮」へ遷座している。
※この「人間史」の解説は、「鳥海山」の解説の一部です。
「人間史」を含む「鳥海山」の記事については、「鳥海山」の概要を参照ください。
人間史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 17:39 UTC 版)
天暦元年(947年)以降 - 菅原道真公を祀る目的として火山岩の上に横山天神祠が安置される。 南北朝時代 (1337年) - 南朝方の武士達が火山岩より湧出している鉱泉に浸かって療養していたという伝承が伝わっている。 嘉永6年(1853年)3月 - 西国三十三名所図会・河内名所図会において横山天神祠と共に潮湧岩という名前で紹介される。 明治40年(1907年) - 横山天神祠が彼方春日神社に合祀される。 明治43年 (1910年) - 横山天神祠の跡地に旅館が開館する。 明治44年(1911年) - 汐ノ宮駅が開業する。 大正12年 - 大鉄により汐ノ宮温泉浴場が開設される。 昭和9年 - 大鉄が汐ノ宮温泉興業株式会社を設立し、温泉施設の拡張が行われる。 昭和15年 - 大鉄が汐ノ宮温泉興業株式会社を吸収合併し、直営に戻る。 昭和18年 - 大鉄経営による汐ノ宮温泉浴場が廃業となる。令和3年現在、民間の温泉研修センターが跡地に作られている。 平成元年(1989年) - 日本地学教育学会の刊行物において教育題材として汐ノ宮火山岩が紹介される。 平成26年(2014年) - 大阪府のレッドリスト地形地質版に掲載される。
※この「人間史」の解説は、「汐ノ宮火山岩」の解説の一部です。
「人間史」を含む「汐ノ宮火山岩」の記事については、「汐ノ宮火山岩」の概要を参照ください。
- 人間史のページへのリンク