水路開削とは? わかりやすく解説

水路開削

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 13:38 UTC 版)

見沼代用水」の記事における「水路開削」の解説

測量がほぼ終わり見沼溜井周囲農業需要減った1727年享保12年9月から水路開削始まった工事水路沿いの々にそれぞれ割り当てて請け負わせたが、工事必要な木材や釘は江戸幕府支給し、また大工石工鍛冶などの技能を必要とする人員について幕府派遣した下中条取り入れ口は、長さが約43.6メートル24間)、幅が約3.6メートル(2間)の木製作られた。利根川から取り入れられ用水は、新たに建設され水路見沼新井筋(長さ約2.45キロメートル)をくだり、星川合流させた。星川内は流路改修して使用した星川代用は、現在の久喜市菖蒲町分流し、星川側に十六間堰、代用側に八間堰がそれぞれ設けられた(詳しく後述)。 星川分かれた水路は、新たに開削された幅約6間の水路南下する柴山現在の白岡市)で元荒川交差するが、元荒川代用水の高低差があるため、伏越ふせこし詳しく後述)で元荒川越える。工事当時元荒川湾曲した流れになっていたため、元荒川流路湾曲正す工事行われたまた、元荒川交差には通船のための、懸渡井(かけとい、詳しく後述)も作られた。しかしこの懸渡井1760年宝暦10年)に水害のため大破し取り壊された。 さらに大宮台地蓮田支台)の縁に新設水路下り瓦葺村現在の上尾市)では綾瀬川交差するが、ここでは懸渡井綾瀬川越える。懸渡井前後水位維持するため盛土築き、その天端水路通している。綾瀬川周囲は、低地湿地となっており、最も難工事であった場所と考えられている。綾瀬川越えたところで、流路見沼代用水東縁見沼代用水西縁二手分かれる。しかしこの懸渡井1961年昭和36年)に伏越改められ取り壊され流路分流綾瀬川越え手前になった遺構として掛渡井一部残されている。 東縁代用水路は、見沼のあった東側台地鳩ヶ谷支台)の縁を沿うように東側進み八丁堤まで達したここから旧来の見沼溜井接続されていた谷古田舎人などへの農業水路接続された。 西縁代用水路は、東縁と同様に見沼のあった西側台地浦和大宮支台)の縁を沿うように南下し八丁堤まで達したここから旧来の見沼溜井接続されていた浦和戸田笹目などの領地灌漑する水路付け替えられた。 代用水路開削とともに見沼溜井干拓同時に行われた。まず、芝川荒川への吐口からの川幅拡張が行われ、八丁堤までの水路延長された。その後八丁堤開いて溜井排出した。後の1731年には荒川からの逆流を防ぐため、芝川吐口逆水樋門設置された。 これだけ大規模工事にもかかわらず用水路完成着工から約5ヶ月後の1728年2月で、3月には利根川から流し込み用水路利用始まっている。建設に関わった作業者は延べ90万人といわれ、江戸幕府支出した工事費用は賃金が約1万5,000両、工作物が5,000両で総額2万両に達した。しかし、見沼溜井跡地新田として1,175町歩(約1,160ヘクタール)が打ち出され毎年5,000石弱の年貢米江戸幕府納められようになった詳しく後述)。

※この「水路開削」の解説は、「見沼代用水」の解説の一部です。
「水路開削」を含む「見沼代用水」の記事については、「見沼代用水」の概要を参照ください。

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