水車と上水道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 04:02 UTC 版)
1523年の文献で存在が確認されるアスペルガー通り18番地のメークリンガー水車は、当時、コンラート・ミュラーによって管理されていた。1561年にミュールバッハと呼ばれ、現在は一部が暗渠化されているウンテラー・ロイデルスバッハ川は、元々は牧師館の下に設けられた「ヴェッテ」(防火水槽)に水を供給していた。短い区間集落内を通った後、プフレークフェルデンから来たフルトバッハ川がロイデルスバッハ川に右岸側から合流する。この後川は水車を駆動するに十分な水量となる。 さらに17世紀にはホーエンアスペルク要塞に火薬を供給するために、メークリンゲンにプルファーミューレ(火薬製造用水車)が設けられた。この要塞は三十年戦争中、おそらくは1634年に皇帝軍によって包囲された際に破壊された。1662年にヴュルテンベルク公エーバーハルト3世は、マルクグレーニンゲン近郊の、より水量の多いグレムス川沿いにプルファーミューレを建設させた。 穀物製粉業者カスパー・ジクリンは、ヴュルテンベルク公エーバーハルト・ルートヴィヒの命令によって立ち退かされ、その水車があった場所に、新たに建設されたルートヴィヒスブルク宮殿に飲料水を供給するための揚水場が設けられた。周辺の様々な水源からの水が貯水槽に集められ、「レッシャー」の水道塔に汲み上げられた。公には当然補償金や賃金を支払う義務があったが、これを行わなかったため、関わった数人のメークリンゲン住民は貧困に陥った。10年後、ポンプの能力が低かったことや、運用コストが嵩むこと、管理上の不備によりこの施設は稼働を停止した。これにはサボタージュも関係していたとされる。 1743年に再び建設された穀物水車は、ロイデルスバッハの水量が乏しく経済的でなかったために、何度も所有者が代わった後、1904年に廃止された。
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