大山寺縁起絵巻
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「大山 (神奈川県)」の記事における「大山寺縁起絵巻」の解説
『大山寺縁起絵巻』によると、相模国の国司であった大郎大夫時忠という人物が、子供に恵まれないため、如意輪観音像を製作して祈ったところ、夫婦の夢の中に高齢の僧が現れ、「弥勒菩薩の化身」という法華経一巻を与えて姿を消した。その後夫婦の間に男の子が生まれ、仏の化身とされて、国中から祝福を受けたが、誕生から50日後、野外で赤ん坊が湯浴みしているときに、金色の鷲にさらわれてしまった。夫婦は嘆き悲しんだが、金色の鷲の巣に連れ去られたその子供は奈良の覚明という僧に引き取られ、「金鷲童子」と名付けられた。童子は出家して「良弁」を名乗り、聖武天皇に認められて東大寺(金鐘寺)の初代別当となり、華厳宗を確立したが、良弁の噂を聞いた時忠は奈良に行き、子である良弁と再会した。話を聞いた聖武天皇は、良弁が相模国に帰国することを許したが、当地で仏法を広めたらすぐに帰京することを命じた。 相模国で、良弁は大山の山頂から光が放たれているのをみた。なお、ここにみられる「放光山伝説」は修験道と関連の深い山岳の縁起によくみられるものであるという。良弁は大山に登り、山頂の地面を掘って、不動明王の石像を発見した。そのとき、不動明王が、この山は弥勒菩薩の「兜率天浄土」であると語った。良弁は山中でみいだした霊木で不動明王の像を製作し、その像の前で21日間祈ると、弥勒菩薩の化身である四十九院が現れるなどした。なお、仏像を霊木で製作するという部分に、霊木信仰の存在が指摘される。 良弁が山中にある岩窟の下の池の端で、7日間祈ると、池の中から震蛇大王を名乗る大蛇が現れ、「自分は大山を守護しているが、仏の教えを無視していたため、このような姿になってしまった。上人のおかげで兜率天の内院に変わることができたので、今後は大山に垂迹して大山寺を守護したい」と語った。ここには、本地垂迹説による、神仏習合の典型的なかたちがみいだされる。 良弁が参拝人のため、水が出るようにして欲しいと大蛇に依頼すると、岩窟の上から水がしたたり落ち、「二重の滝」となった。ここで、絵巻には、詞書には記載がない役小角が二鬼神とともに描かれており、絵巻の成立背景に修験道の影響があることがうかがえる。また、大山信仰の根幹の一つとされる、「大山寺」と「水」との関係(水垢離をする修行者など)が鮮明に描写されているとされる。 こうして、大山寺を開山すると、良弁は、天皇との約束に従い、帰京していったとされる。
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大山寺縁起絵巻
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「大山寺縁起 (相模国)」の記事における「大山寺縁起絵巻」の解説
『大山寺縁起絵巻』諸本は真名本と仮名本の系統にわかれ、真名本は寛永14年(1637年)の大日本仏教全書に収録されているものを含め11点、仮名本は享禄5年(1532年)の平塚市博物館本を含めて13点、あわせて24点が存在する。なお、真名本と仮名本とは、表記の差異を除けば、構成等に大きな差異はない。 詞書の作者については、平塚市博物館本(享禄5年(1532年))では「祐賢坊乗真」であり、伊勢原市教育委員会本(貞享元年(1684年))では「斎藤一器子外1名」であり、藤沢市教育委員会本(元禄12年(1697年))・大山寺本では「橘盛林」であり、内閣文庫本では「大山寺務賢隆」、町田市勝楽寺本では「平岡伊織頼経」である。 また、絵筆者については、唯一、伊勢原市教育委員会本に「清水七之烝」「清水七右衛門」の記載があるのみで、他の諸本の絵筆者が誰かは全くわからない状態である。 なお、「仮名本」13点のうちで最古とされる「平塚市博物館本」と、後世(江戸時代)の諸本(仮名本)の構成が非常に類似しているため、「平塚市博物館本」が後世の仮名本の基準となった可能性が指摘されている。
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