大山崎の八幡宮神人
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大山崎の神人たちは、大山崎郷の西国街道沿い十一保を本拠地として離宮八幡宮に所属する一方、本社である石清水八幡宮(男山八幡)の内殿灯油の貢進を行っていた神人たちであるとされる。 大山崎の地は、白雉4年(653年)に孝徳天皇が山崎宮を造営させ、神亀2年(725年)には行基が山崎橋を造るなど、古くから景勝地としても知られていたが、平安京造営後は都のすぐ南西にあたり、山城と摂津の国境の地であり、また淀川水系の桂川と宇治川、木津川の合流地点という水陸交通の要衝であるため、平安京の外港としても栄えた地であった。桓武天皇や嵯峨天皇は行幸の際に行宮としてたびたび立ち寄っており、山崎離宮とも呼ばれた(唐風文化を好む嵯峨天皇は河陽宮と呼んだ)。大山崎の地に鎮座する離宮八幡宮の起源は、清和天皇代の天安3年(859年、貞観元年)に宇佐八幡神を都の近くへ勧請した際、いったん大山崎の嵯峨天皇離宮に上陸し、のちに男山に遷座したことによるという。この故事にちなみ、毎年4月3日に行われた神事「日使頭祭(ひのとさい)」に際して、頭役として勤仕して神人の身分を獲得したのが大山崎神人とされる。 しかし小西瑞恵によれば、以上のような離宮八幡宮の縁起は不明な点が多いこと、大山崎に少なくとも10世紀末まで離宮が存在したこと、『離宮八幡宮文書』に残された文書が、鎌倉時代の2通を除きほとんど14世紀以降のものであることなどから、離宮八幡宮が石清水八幡宮と同時に成立したとは考えられず、八幡宮社としての成立はかなり年代が下るとの説を提唱した。脇田晴子も、離宮八幡宮には中世から現代に至るまで氏子集団・組織が存在せず、また中世において明確な所領を持っていなかったことを明らかにした。離宮八幡宮の名称も縁起類を除けば細川政元書状に見える文明年間(1469年 - 1487年)のものが初見であり、離宮八幡宮は南北朝時代から室町時代初め頃に成立したとみる説が有力となっている。そのため、それ以前の史料中に「大山崎八幡宮神人」とある場合、離宮八幡宮神人ではなく、石清水八幡宮神人を意味する可能性が高い。 大山崎に古くから油絞りに携わる者がいたことは、平安時代末期に成立した『信貴山縁起絵巻』飛倉巻に、山崎長者の家に油締木や荏胡麻を煎るための竈・釜が描かれていることからも明らかである。また鎌倉時代初期には小倉百人一首で有名な歌人藤原定家が「山崎油売小屋」の家に泊まったことが日記『明月記』に残されている。伝承によれば、大山崎の社司が長木(ちょうぎ)というテコの原理を利用した圧搾機による搾油法を開発したといい、また油の原料となる荏胡麻の栽培も始めたという。この油は石清水八幡宮を初めとする京都寺社の灯明として利用されたほか、朝廷穀倉院にも献納された(後述)。こうしたことを通じて大山崎灯油は京都市場で優位に立ち、洛内に多く存在した神社仏閣に販売されることになっていく。このように油の大消費地である京都に隣接していることもまた大山崎油座が拡大した原因であった。
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