大山崎の八幡宮神人とは? わかりやすく解説

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大山崎の八幡宮神人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 15:21 UTC 版)

大山崎油座」の記事における「大山崎の八幡宮神人」の解説

大山崎神人たちは、大山崎郷の西国街道沿い十一保を本拠地として離宮八幡宮所属する一方本社である石清水八幡宮男山八幡)の内殿灯油貢進行っていた神人たちであるとされる大山崎の地は、白雉4年653年)に孝徳天皇山崎宮を造営させ、神亀2年725年)には行基山崎橋造るなど、古くから景勝地として知られていたが、平安京造営後は都のすぐ南西にあたり山城摂津の国境の地であり、また淀川水系桂川宇治川木津川合流地点という水陸交通の要衝であるため、平安京外港としても栄えたであった桓武天皇嵯峨天皇行幸の際に行宮としてたびたび立ち寄っており、山崎離宮とも呼ばれた唐風文化を好む嵯峨天皇河陽宮と呼んだ)。大山崎の地に鎮座する離宮八幡宮起源は、清和天皇代の天安3年859年貞観元年)に宇佐八幡神を都の近く勧請した際、いったん大山崎嵯峨天皇離宮上陸し、のちに男山遷座したことによるという。この故事にちなみ、毎年4月3日行われた神事日使頭祭(ひのとさい)」に際して頭役として勤仕して神人身分獲得したのが大山崎神人とされる。 しかし小西瑞恵によれば、以上のような離宮八幡宮縁起不明な点が多いこと、大山崎少なくとも10世紀末まで離宮存在したこと、『離宮八幡宮文書』に残され文書が、鎌倉時代の2通を除きほとんど14世紀以降のものであることなどから、離宮八幡宮石清水八幡宮同時に成立したとは考えられず、八幡宮としての成立はかなり年代が下るとの説を提唱した脇田晴子も、離宮八幡宮には中世から現代に至るまで氏子集団組織存在せず、また中世において明確な所領持っていなかったことを明らかにした。離宮八幡宮の名称も縁起類を除けば細川政元書状見え文明年間1469年 - 1487年)のものが初見であり、離宮八幡宮南北朝時代から室町時代初め頃に成立したとみる説が有力となっている。そのため、それ以前史料中に大山崎八幡宮神人」とある場合離宮八幡宮神人ではなく石清水八幡宮神人意味する可能性が高い。 大山崎古くから油絞り携わる者がいたことは、平安時代末期成立した信貴山縁起絵巻』飛倉巻に、山崎長者の家に油締木荏胡麻煎るための竈・釜が描かれていることからも明らかである。また鎌倉時代初期には小倉百人一首有名な歌藤原定家が「山崎油売小屋」の家に泊まったことが日記明月記』に残されている。伝承によれば大山崎社司長木ちょうぎ)というテコの原理利用した圧搾機による搾油法を開発したといい、また油の原料となる荏胡麻栽培始めたという。この油は石清水八幡宮初めとする京都寺社灯明として利用されたほか、朝廷穀倉院にも献納された(後述)。こうしたことを通じて大山崎灯油京都市場で優位に立ち、洛内多く存在した神社仏閣販売されることになっていく。このように油の大消費地である京都隣接していることもまた大山崎油座拡大した原因であった

※この「大山崎の八幡宮神人」の解説は、「大山崎油座」の解説の一部です。
「大山崎の八幡宮神人」を含む「大山崎油座」の記事については、「大山崎油座」の概要を参照ください。

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