大山崎油座の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 15:21 UTC 版)
尾張・美濃の戦国大名であった織田信長が上洛を遂げ、室町幕府を崩壊させたことで、幕府の禁令に依存していた大山崎の優位もまた消滅する。また信長による楽市楽座政策は、まさに大山崎油座のような既得権益に安座していた旧商人の地位を崩壊させるのが目的であった。信長時代に大山崎の頽勢は決定的となった。その後信長は天正10年(1582年)本能寺の変で死去。大山崎は信長を殺害した明智光秀と亡君の仇討ちを期する羽柴秀吉が激突した山崎・天王山の戦いにて再び戦場となるが、勝者となった羽柴秀吉は即座に油座を保護した。秀吉は山崎に城を築き、大坂城を新設するまで山崎城を本拠としたこともあり、以前の信長の方針を覆して油座の優位を認めるなどの保護策をとった。しかし、秀吉による方針転換でも衰退の傾向に歯止めがかかることはなく、大山崎油座は天正12年(1584年)11月18日付の前田玄以奉書を最後として文書上では存在が確認できなくなる。 結局豊臣政権で中世的な座は解体され、江戸時代にも江戸・大坂をはじめ幕府の主要直轄地で座の結成が禁止されるなど、座の制度は近世に入って完全に崩壊し、それとともに大山崎油座の歴史も終焉した。なおこの間、慶長6年(1601年)徳川家康が下した判物により、大山崎は石清水ではなく離宮八幡宮の神領として正式に認められている。
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